12月8日を迎え、思いつくままに以下のことを述べておきたい。
ちょうど70年前の今日、真珠湾への奇襲攻撃であの無謀な戦争は始まった。
あの戦争は、ABCD包囲網により日本が引っ張りこまれた戦争だという修正主義的な見方もあるが、火蓋を切ったのは日本であったことには間違いない。
しかも、それ以前から日本は大陸や東南アジアでゴソゴソやっていたのだから、自分たちを一方的な被害者に仕立てようとしてもそうはゆくまい。
百歩譲って、それら包囲網のなかでのどうしようもない状況から抜け出すための開戦だったとしても、戦争が「政治や経済の延長」だとしたら、落とし所、落ちどころの計算がなければならない。
しかし、そんな冷静な計算はどこにもなかった。
初戦の奇襲の成功で浮かれ立った日本軍にとってはそれゆけドンドンがあるのみだった。
後でこの戦争の具体的な過程を調べると、日本軍が押していたのは開戦後のほんの僅かな時間で、分不相応で補給のあてもない戦線拡張を行ったあとは、その戦線もズタズタにされズルズル後退していたのが実情であった。
それでも大本営は戦勝を叫び続け、ますます収拾のつかない泥沼へと落ち込んでいった。
その愚を指摘する勢力はもはやなかった。明治から、大正の束の間の明るみを経て昭和へと至った過程で、日本の思想や言論の自由は徹底して奪われ、破壊され尽くしていた。それは、現在の北朝鮮と同様、ないしはさらに過酷だったとも言える。
今でこそ殊勝なことをいっているマスコミもまた、大本営に輪をかけた報道で国民を鼓舞し、洗脳していった。だから、日本国民のかなり冷静な人たちも、敗戦間際になっても、そんなにズルズルに敗けていることはほとんど知らなかった。
また、知識人や文化人といわれた人々も、あらゆる科学や芸術の分野を総動員して、そうした戦意高揚の手先となり、国民の洗脳を請け負っていた。
戦争反対など叫ぼうものなら、官憲による弾圧もさることながら、それ以前に徹底的な皇民教育で洗脳されていた群衆によって、袋叩きにされ火をかけられていただろう。
戦争末期、空襲や戦死者の激増のなか、「この戦争は負けるかも知れない」とつぶやいただけでそれをチクられ憲兵隊に引っ張られたケースがいくらもあった。
対戦国の科学力や物量的優位に対し、ただひたすら精神力でもって立ち向かうことが強いられた。相手の重火器に対して日本軍は「消耗品としての兵力」の数とその無謀な突撃で対峙した。国内においてはB29の来襲に残された老人や女性、子供たちが竹槍で立ち向かうことが強制された。
いよいよ最終局面になり、沖縄での地上戦で民間人を盾にした「武士道」にあるまじき無様な敗戦を喫した折、次は本土総決戦といわれた(沖縄は「本土ではなかった」ことに注意)。一人一殺(上陸してくる相手一人一人と刺し違えよということ)が叫ばれ、一億総玉砕が叫ばれた。
しかし考えてもみるがよい、日本人すべてが死しても行うべき戦争とは一体何だったのか。ヤクザの意地の張り合いですら皆殺しになる前に、「手打ち」というものがある。
加えて、元寇の役の「歴史的経験」が誇大にかつぎあげられた。
敵が上陸する際には必ず「神風」が吹いて、敵の上陸を阻むというのだ。
これではまるでカルト教団と同じレベルであるといわれても致し方あるまい。
一億総カルトの目を覚まさせたのは広島と長崎の犠牲においてであった。
これでもって米軍の原爆投下を正当化するむきがあるが、これに与するわけには行かない。いくら戦争を早期に終結させるためとはいえ、その兵器のもつ残虐性は覆うべきもないし、また、これこれの命を救うためには、そうではない命が犠牲にされてしかるべきだという論理にも与しかねる。
広島と長崎の悲劇は、日本軍部のカルト的頑迷さと、米軍による残虐兵器の実験との共演によってもたらされたといってよい。
今日はその愚かな、おおよそ4年間にわたる歴史が決定的な第一歩を踏み出した記念すべき日である。
それは、私が3歳の時であった。
そして1945年、敗戦時、私は国民学校一年生で、いっちょ前の少国民として、空襲警報に逃げ回りながらも、一人一殺をどう遂行すべきかに思いを凝らしていた。
この戦争で犠牲になった内外の多くの人々の霊に合掌しつつ・・・
ちょうど70年前の今日、真珠湾への奇襲攻撃であの無謀な戦争は始まった。
あの戦争は、ABCD包囲網により日本が引っ張りこまれた戦争だという修正主義的な見方もあるが、火蓋を切ったのは日本であったことには間違いない。
しかも、それ以前から日本は大陸や東南アジアでゴソゴソやっていたのだから、自分たちを一方的な被害者に仕立てようとしてもそうはゆくまい。
百歩譲って、それら包囲網のなかでのどうしようもない状況から抜け出すための開戦だったとしても、戦争が「政治や経済の延長」だとしたら、落とし所、落ちどころの計算がなければならない。
しかし、そんな冷静な計算はどこにもなかった。
初戦の奇襲の成功で浮かれ立った日本軍にとってはそれゆけドンドンがあるのみだった。
後でこの戦争の具体的な過程を調べると、日本軍が押していたのは開戦後のほんの僅かな時間で、分不相応で補給のあてもない戦線拡張を行ったあとは、その戦線もズタズタにされズルズル後退していたのが実情であった。
それでも大本営は戦勝を叫び続け、ますます収拾のつかない泥沼へと落ち込んでいった。
その愚を指摘する勢力はもはやなかった。明治から、大正の束の間の明るみを経て昭和へと至った過程で、日本の思想や言論の自由は徹底して奪われ、破壊され尽くしていた。それは、現在の北朝鮮と同様、ないしはさらに過酷だったとも言える。
今でこそ殊勝なことをいっているマスコミもまた、大本営に輪をかけた報道で国民を鼓舞し、洗脳していった。だから、日本国民のかなり冷静な人たちも、敗戦間際になっても、そんなにズルズルに敗けていることはほとんど知らなかった。
また、知識人や文化人といわれた人々も、あらゆる科学や芸術の分野を総動員して、そうした戦意高揚の手先となり、国民の洗脳を請け負っていた。
戦争反対など叫ぼうものなら、官憲による弾圧もさることながら、それ以前に徹底的な皇民教育で洗脳されていた群衆によって、袋叩きにされ火をかけられていただろう。
戦争末期、空襲や戦死者の激増のなか、「この戦争は負けるかも知れない」とつぶやいただけでそれをチクられ憲兵隊に引っ張られたケースがいくらもあった。
対戦国の科学力や物量的優位に対し、ただひたすら精神力でもって立ち向かうことが強いられた。相手の重火器に対して日本軍は「消耗品としての兵力」の数とその無謀な突撃で対峙した。国内においてはB29の来襲に残された老人や女性、子供たちが竹槍で立ち向かうことが強制された。
いよいよ最終局面になり、沖縄での地上戦で民間人を盾にした「武士道」にあるまじき無様な敗戦を喫した折、次は本土総決戦といわれた(沖縄は「本土ではなかった」ことに注意)。一人一殺(上陸してくる相手一人一人と刺し違えよということ)が叫ばれ、一億総玉砕が叫ばれた。
しかし考えてもみるがよい、日本人すべてが死しても行うべき戦争とは一体何だったのか。ヤクザの意地の張り合いですら皆殺しになる前に、「手打ち」というものがある。
加えて、元寇の役の「歴史的経験」が誇大にかつぎあげられた。
敵が上陸する際には必ず「神風」が吹いて、敵の上陸を阻むというのだ。
これではまるでカルト教団と同じレベルであるといわれても致し方あるまい。
一億総カルトの目を覚まさせたのは広島と長崎の犠牲においてであった。
これでもって米軍の原爆投下を正当化するむきがあるが、これに与するわけには行かない。いくら戦争を早期に終結させるためとはいえ、その兵器のもつ残虐性は覆うべきもないし、また、これこれの命を救うためには、そうではない命が犠牲にされてしかるべきだという論理にも与しかねる。
広島と長崎の悲劇は、日本軍部のカルト的頑迷さと、米軍による残虐兵器の実験との共演によってもたらされたといってよい。
今日はその愚かな、おおよそ4年間にわたる歴史が決定的な第一歩を踏み出した記念すべき日である。
それは、私が3歳の時であった。
そして1945年、敗戦時、私は国民学校一年生で、いっちょ前の少国民として、空襲警報に逃げ回りながらも、一人一殺をどう遂行すべきかに思いを凝らしていた。
この戦争で犠牲になった内外の多くの人々の霊に合掌しつつ・・・