*写真の説明は後半です。
先般来の田起しがひと通り終わったところで田んぼに水がひかれ、田均しが始まりました。
農作業を観るのが好きです。
実際の経験としては、疎開先の母の実家で小学生の頃、手伝いだか邪魔だかわからない程について回ったことがある程度です。
その頃、田舎では田植え時期と稲刈りの時期には、学校でも農繁期の休みというものがあって、一族郎党、揃って野良へ出たものです。
小学生も必要な労働力とみなされていたということで、その間はちゃんと働いたのです。
私も一応、生きていれば130歳ぐらいの祖父に教えられて田植えをしたことがあります。
人差し指と中指を伸ばし、その間に苗を挟むようにし、親指を添えてそのままっスーっと田の泥の中へ差し込むようにするのです。この時、稲をしっかりキープして、ある程度深く差しこむようにしないと後で苗が浮いてきてしまいます。
稲刈りは刃物(鎌)を使うのでもっぱら大人の仕事で、私たちははざ掛けのところまで稲束を運んだりしました。
田植えも稲刈りも全て手作業でした。加えて除草剤などは一切使いませんから、田植え以後は雑草との戦いです。田の中を這うようにしてそれを取り除きます。
その作業は夏中、炎天下の中でも続くのです。
百姓の仕事は地と向かい合う、つまり、腰を曲げてまさに這うようにする仕事がほとんどでした。ですから昔は、年配のお百姓さんには腰が曲がった人が結構いました。それでももちろん田へ出続けたのでした。
そうした田んぼでしたから、そのなかにはいっぱい水棲の小動物たちがいました。
田植えをしていてもゲンゴロウやミズスマシ、アメンボがスイスイ泳いでいました。フナやメダカ、それに野田、ア、間違い、ドジョウなどが足に当たるほどいました。
厄介なのはヒルです。知らない間に足にくっつき血を吸います。怖いのではありません。従兄弟などとヒルが吸い付いたままの足を見せ合って自慢します。
「ほら、三匹くっついたぞ」
「俺は五匹だ」
といった具合です。ひとしきり放おっておくと吸った血でヒルがまあるく太ってきます。
「こんちくしょう」
と言って引っ張るのですがなかなかとれません。
とってしまえば大した傷口でもないのですが、それでも大変です。
後で猛烈に痒くなるのです。
どうやら、血液を凝固させない成分を分泌しながら吸うようで、その成分が痒みを誘うのです。このあたりは蚊と同じですね。
履いているわらじでもう一方の足の痒いところをこすります。
たいてい両足ともやられていますから、代わる代わる足を上げて掻くのです。
でも今から考えるとこういう田んぼはいい田んぼだったのでしょうね。
自然と共生していて、いうまでもなく有機農法で、化学成分が混入する余地はありません。
しかし、先ほど述べた作業様式からいって生産性はこんにちのものと桁違いでしょうね。
この頃では、田起しも田均しも、田植えも稲刈りも一反や二反はあっという間です。
ですからこの辺りもほとんどは兼業農家で、農作業は土日にいっせいに行われます。
もちろん農繁期のお休みなどというものはありません。
これは祖母の方からよく聞かされたことです。
「《米》はな、百姓が八十八回手を加えねばでけんのじゃ。それで米という字は八十八と書くんじゃ」
なるほどと思うのですが、床に落としたご飯粒も、「米には八十八の・・・」とか「一粒の米でも一年経たねばでけんのじゃ」といって拾って食べさせられるのには閉口しました。
しかし、そうした刷り込みは力を持つもので、今ではこぼしたご飯も余程のことがない限り拾って食べます。
前半の写真は私の家の北側の田んぼで始まった田均しです。
このお兄ちゃん、いつも一人で黙々と作業を進めます。
土日以外にも作業をしますから専業かもしれません。
古い農機具も大事に使います。
どうも有機農法に挑戦しているようです。
このお兄ちゃんの作業を見るのが好きです。
側溝の写真は田へ水をやるためのものです。
かつては自然の小川で、私の子供たちもここで小ブナやドジョウを捕りました。
しかしいまや完全なコンクリート製の溝で、田に水が必要な折のみ、近くのポンプで組み上げた水が流れます。
したがってかつてのような水生動物の影は皆無です。
写真にある緑のものは水棲の植物ではなく、干上がっている間に生えた草たちです。
その他の写真は、家の南側にある桑の木とその実です。
今年は豊作でびっしり実をつけています。
桑の身は緑、白、赤、紫、黒、と色を変化させます。
このうち、食べて美味しいのは最後の黒です。
紫と黒の境界は見極めが難しいのですが、触るか、軽く引っ張ってポロリと取れてくるものが完熟で甘くて美味しいのです。
採れた実は、例によって娘が勤める学童保育のおやつに持たせます。
都会の子たちが興味津々でこの実を見つめ、そして味わってくれることを期待して。
先般来の田起しがひと通り終わったところで田んぼに水がひかれ、田均しが始まりました。
農作業を観るのが好きです。
実際の経験としては、疎開先の母の実家で小学生の頃、手伝いだか邪魔だかわからない程について回ったことがある程度です。
その頃、田舎では田植え時期と稲刈りの時期には、学校でも農繁期の休みというものがあって、一族郎党、揃って野良へ出たものです。
小学生も必要な労働力とみなされていたということで、その間はちゃんと働いたのです。
私も一応、生きていれば130歳ぐらいの祖父に教えられて田植えをしたことがあります。
人差し指と中指を伸ばし、その間に苗を挟むようにし、親指を添えてそのままっスーっと田の泥の中へ差し込むようにするのです。この時、稲をしっかりキープして、ある程度深く差しこむようにしないと後で苗が浮いてきてしまいます。
稲刈りは刃物(鎌)を使うのでもっぱら大人の仕事で、私たちははざ掛けのところまで稲束を運んだりしました。
田植えも稲刈りも全て手作業でした。加えて除草剤などは一切使いませんから、田植え以後は雑草との戦いです。田の中を這うようにしてそれを取り除きます。
その作業は夏中、炎天下の中でも続くのです。
百姓の仕事は地と向かい合う、つまり、腰を曲げてまさに這うようにする仕事がほとんどでした。ですから昔は、年配のお百姓さんには腰が曲がった人が結構いました。それでももちろん田へ出続けたのでした。
そうした田んぼでしたから、そのなかにはいっぱい水棲の小動物たちがいました。
田植えをしていてもゲンゴロウやミズスマシ、アメンボがスイスイ泳いでいました。フナやメダカ、それに野田、ア、間違い、ドジョウなどが足に当たるほどいました。
厄介なのはヒルです。知らない間に足にくっつき血を吸います。怖いのではありません。従兄弟などとヒルが吸い付いたままの足を見せ合って自慢します。
「ほら、三匹くっついたぞ」
「俺は五匹だ」
といった具合です。ひとしきり放おっておくと吸った血でヒルがまあるく太ってきます。
「こんちくしょう」
と言って引っ張るのですがなかなかとれません。
とってしまえば大した傷口でもないのですが、それでも大変です。
後で猛烈に痒くなるのです。
どうやら、血液を凝固させない成分を分泌しながら吸うようで、その成分が痒みを誘うのです。このあたりは蚊と同じですね。
履いているわらじでもう一方の足の痒いところをこすります。
たいてい両足ともやられていますから、代わる代わる足を上げて掻くのです。
でも今から考えるとこういう田んぼはいい田んぼだったのでしょうね。
自然と共生していて、いうまでもなく有機農法で、化学成分が混入する余地はありません。
しかし、先ほど述べた作業様式からいって生産性はこんにちのものと桁違いでしょうね。
この頃では、田起しも田均しも、田植えも稲刈りも一反や二反はあっという間です。
ですからこの辺りもほとんどは兼業農家で、農作業は土日にいっせいに行われます。
もちろん農繁期のお休みなどというものはありません。
これは祖母の方からよく聞かされたことです。
「《米》はな、百姓が八十八回手を加えねばでけんのじゃ。それで米という字は八十八と書くんじゃ」
なるほどと思うのですが、床に落としたご飯粒も、「米には八十八の・・・」とか「一粒の米でも一年経たねばでけんのじゃ」といって拾って食べさせられるのには閉口しました。
しかし、そうした刷り込みは力を持つもので、今ではこぼしたご飯も余程のことがない限り拾って食べます。
前半の写真は私の家の北側の田んぼで始まった田均しです。
このお兄ちゃん、いつも一人で黙々と作業を進めます。
土日以外にも作業をしますから専業かもしれません。
古い農機具も大事に使います。
どうも有機農法に挑戦しているようです。
このお兄ちゃんの作業を見るのが好きです。
側溝の写真は田へ水をやるためのものです。
かつては自然の小川で、私の子供たちもここで小ブナやドジョウを捕りました。
しかしいまや完全なコンクリート製の溝で、田に水が必要な折のみ、近くのポンプで組み上げた水が流れます。
したがってかつてのような水生動物の影は皆無です。
写真にある緑のものは水棲の植物ではなく、干上がっている間に生えた草たちです。
その他の写真は、家の南側にある桑の木とその実です。
今年は豊作でびっしり実をつけています。
桑の身は緑、白、赤、紫、黒、と色を変化させます。
このうち、食べて美味しいのは最後の黒です。
紫と黒の境界は見極めが難しいのですが、触るか、軽く引っ張ってポロリと取れてくるものが完熟で甘くて美味しいのです。
採れた実は、例によって娘が勤める学童保育のおやつに持たせます。
都会の子たちが興味津々でこの実を見つめ、そして味わってくれることを期待して。