過日、突然一冊の本が送られてきました。
差出人を見ると、もう10年来のネットでの知り合いの方です。
年齢は私よりも若いのですが、川柳の世界での先達であり、趣味を同じくする者として多くのものを学ばせてもらってきたひとなのです。
句集でも出されたのかなと思って開封して驚きました。
確かに句集なのですが、タイトルには『鬱川柳』とあります。
一般に考えられている川柳の「軽ろみ」とは対極的なタイトルといえます。
読み進むにつれて納得しました。
一時、調子が悪いかなと思った時期があったものの、ネットを介してのことで詳細はわからなかったのですが、その時期に、まさに鬱と闘っていたらしいのです。
世の中に自分が鬱気味だと思っている人は多いようですが、この人の場合は日常生活にも支障をきたし、医師による本格的な治療を要するような正真正銘の鬱病だったようです。
乗り過ごし行ってみたいと思う朝
これが、鬱を自覚し始めた頃の句だといいます。
以降、「頑張れば頑張るほどに鬱になる」と、職場での無理解な視線にさらされながら病状は深化し、ついに「覚悟して病院の戸を押し開ける」に至ります。
そこで抗鬱剤を服用しその副作用とも闘いながら経過を見るのですが、むろん一朝一夕に治まるわけではなく、ついには治療に専念するために医師の診断書のもと、職場を離れることになります。
ドクターにタオルを投げて貰う鬱
それから本格的な治療になるわけですが、やはり揺れは激しく、この時期、「致死量の薬を持ってふと思う」などという、読み手をドキッとさせる句も散見できます。
この間しばらくは医師との二人三脚での試行錯誤が続くのですが、(「うつ病のメビウスの輪がまだ切れぬ」)そのなかにも幾分のほっとする場面が見られます。
広告紙に一句認(したた)め風呂上がり
句をひねる鬱の晴れ間の午後八時
しかし、やがて薬の変更などを経て、「すっきりと薬が決まり良い目覚め」や「病身にやわらかく吹く春の風」といった状況に至り、寛解の時を迎えます。
もちろん、一筋縄とは行かず、後遺症のような状態との付き合いは続くのですが、そうした薄雲が晴れるように、「昨日とは違って見える風の色」ような境地へと至ることとなります。
そして心機一転、休職扱いだった職場を去って故郷へ帰り、新しい職につきます。「古いもの捨てねばならぬ進む今」なのです。
この句集のタイトル『鬱川柳』はいかにも重いのですが、そして、たしかに前半はどんどん悪化してゆく状況に息を呑むのですが、読み進むうちに次第に光明が見えてくるいわば「希望の書」だということがわかります。
ただし、著者が恵まれていたのは、適切な医師に出会ったこと、病に理解をもって接してくれた相方の暖かさがあったこと、そして何よりも、苦悩する自分を見つめるもう一つの眼差しとしての川柳を手放さなかったことだろうと思います。
この書が、そのタイトルにもかかわらず「希望の書」だと述べましたが、それを適切に示す句があります。
生きるには希望が一つあればいい
これは、川柳とともに著者が抱き続けていた思いであり、この書のサブタイトルともなっています。
なお、お読みいただいてお分かりのように、よくフリー・ペーパーの埋め草などに使われているダジャレやおちゃらけ川柳とは異なり、文芸の一分野としての川柳はこれらの各句のようにリアルで、したがって己や人を動かす強度というものがあります。
ちなみに著者は、全日本川柳協会常任幹事であり、広島平和番傘川柳会会長でもあります。
*タイトル 『鬱川柳 -----生きるには希望が一つあればいい----』
*著者 淡路獏眠
*発行所 新葉館出版 http://shinyokan.ne.jp/
ソフトカバー 1,200円プラス税