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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

三河に春を呼ぶ豊橋の奇祭「鬼祭」へ行く

2014-02-13 01:33:28 | よしなしごと
 地域の同好の方々と一緒に、豊橋市の天下の奇祭といわれる「鬼祭」に行ってきた。
 毎年、2月10、11の両日にわたって行われるこの祭りは、正式には、安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)、別名豊橋神明社(とよはししんめいしゃ)の例祭で、国の重要無形民俗文化財に指定されているという。

 早朝に岐阜を出発したせいで、9時にはもう豊橋に到着したので、街なかを散策しながら神明社へと向かう。集合場所を決めての自由行動なので、私は一人で生まれてはじめて通るような脇道を選んでぶらぶらと歩を進めた。だいたいの土地勘はあるのと、方向感覚はまあまあいいせいで、迷うことなく会場近くに着いた。

   
                          歩兵第18連隊の哨舎跡(末尾に注)
 
 神明社は豊橋公園(吉田城址だが終戦までは歩兵第18連隊の所在地)のすぐ前なので、まずは市の公会堂が目に入る。見た目にやさしいロマネスク様式を基調にし、大正から昭和にかけてのモダニズムの風貌を湛えているこの建物は、国の登録有形文化財に登録されている。

 

 豊橋といえば、今なお、路面電車が走っているのが嬉しい。
 見ていると、かなり頻繁に走っているのだが、利用客もそれなりにある。
 もうとっくに路面電車がなくなてしまった街に住んでいる身には羨ましいものがある。

 

 やがて、最初の集合場所である豊橋美術博物館に着く。ここは2010年秋に、当時開催されていた「ユトリロ展」に来たことがあり、ようするに豊橋はそれ以来ということになる。
 ここで他のメンバーと落ち合って、付帯する軽食堂で昼食をとった。

 

 さて、いよいよ祭りの会場である。来る途中の下調べで少し境内を覗いてみた折でもかなりの人出があったのだが、再び戻ってみると人出は倍増していた。
 11時50分からは、まずは子鬼が登場し、そのぬいぐるみのなかには、小学校の5年生が入っているという。解説のようなアナウンスが入り、神事に付く演技者の名前をいちいち報じるのも現代風で面白い。

 

 すごい人混みでよくは見えないが、デジカメを持つ手を高くあげてその液晶部分で間接的に見る。そしてここぞという場面でシャッターを押す。
 この子鬼の奉納の所作が終わったところでこの祭りの名物「たんきり飴」という飴撒きの行事がある。
 この飴撒きが単に飴を投げるというだけの半端なものではない。それと一緒に大量の白い米粉が祭りスタッフのもつ赤いズタ袋のようなものからぶちまけられるのである。その凄まじさは写真を参照してご想像いただきたい。

 
 

 私はというと、土地の人らしいご婦人方が、「ここはだいじょうぶだよね」と話していたのですっかり油断をして向かい側の「惨状」をカメラに収めていたら、とんでもない方向から米粉爆弾が飛んできて、とっさにカメラをかばったものの、頭から真っ白になってしまった。慌てて避難をしてそれを振り払ったのだが、帰宅してからも帽子や衣服のあちこちに白い粉が残っているほどであった。
 ただし、この粉を被ることは厄除けになるとかで、地元の人は進んで被ったり、あるいはそれを振り払おうとしなくて顔まで白粉だらけで闊歩している人がたくさんいた。

 
 

 さらに様々な神事があり、本殿前の舞台では弓矢の奉納と、奉納されたそれを1年12ヶ月になぞらえて12本の矢を放ったあと、いよいよこの祭りの見せ場である大赤鬼が登場した。さすがに先ほどの子鬼に比べれば貫禄がある。そしてこの大赤鬼と天狗とが対峙し問答を行うのだが(「からかい」というらしい)、ここがクライマックスで、敗れた鬼は街々を駆け巡り、またまた飴と一緒に白い米粉をまき散らす。

 
 

 このへんまで見届けてから帰途についた。
 三河地方に春を呼ぶこの祭りは、まだまだ延々と夜半まで続くのだそうだ。
 そうそう、その途中で、近くにある豊橋公園へ行き、吉田城址とその眼下を流れる文字通り豊かな豊川を見てきた。

 
 

 この祭り、ディティールはともかく、荒ぶる神としての赤鬼が天狗に敗れて退散するというストーリーは一昔前にみた奥三河の「花祭」に似ていうように思った。鬼は共通だが、花祭の方でそれを鎮めるのは神主のような装束であったと思う。また、鬼祭で祝福とされる白い粉は、花祭ではかまどにたぎり立つ湯を、笹の葉につけて振り回すその雫であった。
 なお、荒ぶる神である鬼は縄文人で、あとから来た弥生人がこれを鎮めるのだというもっともらしい話を読んだことがあるが、その真偽の程は知らない。

 豊橋というところは、個人的にも懐かしいところである。私の青春像を交えてそれを小説にでも書こうかという大胆極まりない構想があり、「路面電車が走る街」という題名まで決まっているのだが、肝心な中身がまだ空っぽである。死ぬまでに書き上げることができたらおなぐさみというものだ。


【歩兵第18連隊の悲劇】
昭和19年3月、サイパン島に進駐。途中で米軍の攻撃を受け輸送船が沈没、門間連隊長以下2,200名が戦死。サイパン島に上陸したのは約1,800名。
昭和19年5月、グアム島に一部移駐。
昭和19年6月20日、グアム移駐に間にあわなかった第1大隊、第3迫撃砲中隊、衛生隊は米軍のサイパン上陸に遭遇、ガラパン神社前の米軍陣地夜襲で全滅。
昭和19年7月21日、グアム島に移った連隊主力は米軍上陸地点で防御戦を展開するも戦闘能力は著しく低下、戦車第9連隊の1個小隊を先頭に残余の兵力で攻撃前進中、集中砲火を浴び大橋連隊長以下大部分の将兵が戦死、玉砕する。
コメント (2)
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