韓国映画、『レッド・ファミリー』を観た。
監督はイ・ジュヒョンだが、制作・脚本・編集はキム・ギドクという。
例によって、これから観る人のためにストーリー展開ののネタバレは避けるが、状況設定は、韓国に派遣された北の工作員たち4人が擬似家族を形成しつつ、その任務を果たす過程で醸し出すさまざまな問題を、なかば喜劇的な設定で、しかし次第にシリアスな状況に至るものして描いたものである。
4人の工作員が形成する家庭は、バリアーに包まれている。そのバリアーは、朝鮮半島の地理的な現状からいえば、南北を分断する38度線といえる。ようするに、彼ら4人とその外部を隔つのは、彼ら4人を囲んでいる38度線そのものなのである。
したがって彼ら4人は、外部でのありようと、ドアを開けて38度線の北側にいる時とでは、その立場も容貌も、そして人格も豹変する。
そうした38度線の、もっとも接近した南として、やはり4人からなる隣家の韓国の中流家庭が設定されている。
最初は工作員たちの一般的な「任務」について描かれていたものが、次第に隣家との関係へと焦点が絞られてゆく。それは工作員たち4人にとっては自分たちの置かれた立場を対象化して考えてゆく契機であるのだが、同時に、工作員たちを支える「理念」が直面する危機の要因でもある。
それがどのように収斂されてゆくのかが、家族というものの問題とともにこの映画の全体を規定してゆく。ようするに南の情況が北の理念を溶かしてゆく太陽と北風のような話といってもいいのだが(そしてそのような評価が多いのだが)、はっきりいってそのようにまとめてしまうのには同意できない。
この映画は徹頭徹尾、南の価値観、ようするに普遍化された西洋民主主義、ないしは自由主義の立場からのものといえる。だから、北の工作員たちがそのままではありえないということが、ある意味、予定調和的に当初から組み込まれてしまってる。
こういったからといって、北の立場を尊重せよとかそれを擁護しようというわけでは全くない。彼我の相対的優劣は一応明らかだからだ。
どのような意味でも、人間の尊厳を人質にとったような抑圧の体制を擁護するわけにはゆかない。
しかし、この映画では「愛なき理念」(この映画の前半で、「愛は理念を狂わす」という表現があったと思う)と、隣家の「理念なき愛」、つまりは消費社会への隷属とが対比されている向きもある。
それを念頭に観た場合、サラ金、いじめといった南の家族が抱える消費社会の生み出した問題を解決するのが、南の(家族の)自浄ではなくて北の力(暴力)であることが示唆するものは興味深い。
ようするにそこでは、消費社会に絡め取られた南の(当然日本もその範疇に入るのだが)抱える問題をも、副次的にではあるが、まな板に乗せられているといっていいだろう。
実際のところ、映画ではそのへんのところは曖昧なまま、とりあえずは北の工作員たちの理念と愛の葛藤が、「人間らしく」という南=日本=西洋近代主義の価値観でもって止揚されたことになっている。
しかし、「人間らしく」というのがもっとも漠然とした形容にしかすぎないとしたら、この映画で露呈した問題の在処は、実はエンドレスではないかと思わざるをえない。
そして、そうした混沌が、つまり北の頑なな姿勢と、南のすさまじい発展による無原則なありよう(何度もいうがそれはまた日本のそれでもある)が、局所的、地理的に並置されているのが朝鮮半島であり、したがってこの映画の実際の主人公は、不可視の、それでいて実はどこにでも普遍化している38度線であるともいえる。
最後の若者二人のシーンは、未来へと託されたかすかな希望を示唆するものであることはいうまでもない。
監督はイ・ジュヒョンだが、制作・脚本・編集はキム・ギドクという。
例によって、これから観る人のためにストーリー展開ののネタバレは避けるが、状況設定は、韓国に派遣された北の工作員たち4人が擬似家族を形成しつつ、その任務を果たす過程で醸し出すさまざまな問題を、なかば喜劇的な設定で、しかし次第にシリアスな状況に至るものして描いたものである。
4人の工作員が形成する家庭は、バリアーに包まれている。そのバリアーは、朝鮮半島の地理的な現状からいえば、南北を分断する38度線といえる。ようするに、彼ら4人とその外部を隔つのは、彼ら4人を囲んでいる38度線そのものなのである。
したがって彼ら4人は、外部でのありようと、ドアを開けて38度線の北側にいる時とでは、その立場も容貌も、そして人格も豹変する。
そうした38度線の、もっとも接近した南として、やはり4人からなる隣家の韓国の中流家庭が設定されている。
最初は工作員たちの一般的な「任務」について描かれていたものが、次第に隣家との関係へと焦点が絞られてゆく。それは工作員たち4人にとっては自分たちの置かれた立場を対象化して考えてゆく契機であるのだが、同時に、工作員たちを支える「理念」が直面する危機の要因でもある。
それがどのように収斂されてゆくのかが、家族というものの問題とともにこの映画の全体を規定してゆく。ようするに南の情況が北の理念を溶かしてゆく太陽と北風のような話といってもいいのだが(そしてそのような評価が多いのだが)、はっきりいってそのようにまとめてしまうのには同意できない。
この映画は徹頭徹尾、南の価値観、ようするに普遍化された西洋民主主義、ないしは自由主義の立場からのものといえる。だから、北の工作員たちがそのままではありえないということが、ある意味、予定調和的に当初から組み込まれてしまってる。
こういったからといって、北の立場を尊重せよとかそれを擁護しようというわけでは全くない。彼我の相対的優劣は一応明らかだからだ。
どのような意味でも、人間の尊厳を人質にとったような抑圧の体制を擁護するわけにはゆかない。
しかし、この映画では「愛なき理念」(この映画の前半で、「愛は理念を狂わす」という表現があったと思う)と、隣家の「理念なき愛」、つまりは消費社会への隷属とが対比されている向きもある。
それを念頭に観た場合、サラ金、いじめといった南の家族が抱える消費社会の生み出した問題を解決するのが、南の(家族の)自浄ではなくて北の力(暴力)であることが示唆するものは興味深い。
ようするにそこでは、消費社会に絡め取られた南の(当然日本もその範疇に入るのだが)抱える問題をも、副次的にではあるが、まな板に乗せられているといっていいだろう。
実際のところ、映画ではそのへんのところは曖昧なまま、とりあえずは北の工作員たちの理念と愛の葛藤が、「人間らしく」という南=日本=西洋近代主義の価値観でもって止揚されたことになっている。
しかし、「人間らしく」というのがもっとも漠然とした形容にしかすぎないとしたら、この映画で露呈した問題の在処は、実はエンドレスではないかと思わざるをえない。
そして、そうした混沌が、つまり北の頑なな姿勢と、南のすさまじい発展による無原則なありよう(何度もいうがそれはまた日本のそれでもある)が、局所的、地理的に並置されているのが朝鮮半島であり、したがってこの映画の実際の主人公は、不可視の、それでいて実はどこにでも普遍化している38度線であるともいえる。
最後の若者二人のシーンは、未来へと託されたかすかな希望を示唆するものであることはいうまでもない。