縁あって、ジョー・ウォルトン『わたしの本当の子どもたち』を読んだ。
作者は1964年生まれのイギリス系カナダ人女性作家、詩人でもある。
物語は2015年、介護施設にいる89歳(1926年生まれ、私の10歳上)の老婦人、パトリシアの回想からはじまる。
彼女は施設の看護人などから意識が混乱しているとみなされている。確かに、認知に侵されてはいるものの、聡明なパトリシアは自分の混乱を自覚している。
彼女の記憶は二重なのだ。二つの記憶がオーバラップしている。子供の数は?記憶のディティールにおける様々な差異と二重性、それらが同居している。
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なぜそうなのかを彼女は回想する。
少女時代、多感な学生時代などの記憶は一つのものとして統一されている。
しかし、ある契機でこの統一は破れ分裂する。
その契機とは、彼女が23歳の折、敬愛する男性から求婚された際に生じる。
一人のパトリシアはそれを真正の愛と受け止め、結婚を承諾するだろう。
そしてもうひとりのパトリシアは、彼をめぐるやや微妙な問題点を感受したのか、その求婚を受け入れることはないだろう。
ここに二つの可能性に応じた物語、そう、SFでおなじみのパラレルワールドが展開することとなる。
結婚したパトリシアとしなかったパトリシアが交互に登場する。
これが結構な大河小説なのである。文庫本だが細かい活字で450ページもある。
やがて、パトリシアの呼称も別れることとなる。
結婚しなかった方はパット、した方はトリッシュ。
かくして、パットとトリッシュの物語は交互に展開される。
それが微妙に(ほとんどそれとわからないほどに)クロスするエピソードがあるのも面白い。
この二人の経験と記憶は、最終章において、施設に入った89歳の老女、パトリシアの記憶において統合されるだろう。ただし、二つに分裂したそれぞれに異なる記憶として。
ここまでお読みになった人は、つまるところウイットに富んだ、SF定番のパラレルワールドものだとお思いになるであろう。
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そう、それが物語の大筋であり骨子である。
普通、私が映画や物語を紹介する場合、あとからご覧になる方のためにここまでネタバレ風に書くことはない。
その禁をあえて破ったのは、ここまで種明かしをしてもじゅうぶんに面白いからである。
まず両方のパラレルワールドは、私たちが知る現代史と平行に進みながら、微妙に違う。片方では小規模な核戦争が起こり、その弊害は主人公たちにも及ぶ。もう一方も月世界での基地の存在などリアルな世界とは微妙に異なる。
しかしその双方とも、決して荒唐無稽ではなく、私たちが共有するこの現実の中でじゅうぶん起こり得ることなのだ。
しかし、面白さはそこにではなく、そしてそれが荒唐無稽な物語を免れることになるのだが、その双方に、戦争と平和、テロル、ジェンダーやフェミニズム、女性の社会進出、政治参加の問題、同性婚や複数婚を含む結婚の形、それに伴う家族の形、親子の問題、認知症の問題、介護の問題、相続の問題などなど、まさに私たちが直面している問題が、評論としてではなく物語そのものの、パットの方もトリッシュの方もそれと対峙しなければならないストーリーそのものの必要不可欠なファクターとして登場してくることである。
それによってこの小説は、思いつきとしてのパラレルワールドのシチュエーションにはとどまらず、それを超えたものとなる。
ここでは、(普通の)結婚をしなかったパットの方も、そして(普通の)結婚をしたトリッシュの方にも、リアルな問題に直面しながら成長してゆく女性の、というか人間のありようへの真摯な対応が読みどころといえる。
既にみたように、その二つの人生が、最終章で、パトリシアという老女に於いての重複した二つの記憶として回収されるわけだが、そこでパトリシアは自らに問うている。
どちらの選択が何をもたらしたのか。それが自分にとって、世界にとってどうだったのかと。
ここには、例のアマゾンの奥地での蝶の羽ばたきが世界に何をもたらすのかという「バタフライ効果」にも似た問いがある。私たちの人生にはたった一度の分岐点や決断ではなく、多くの分岐点(そうとは気づかれないものも含めて)があり、その数だけ決断に迫られているとしたら、それらが私を造ると同時に世界をある相のもとに現前せしめるという意味において、そこには倫理的な問題が含まれているともいえる。
それをも考え合わせると、タイトルの『わたしの本当の子どもたち』はパットとトリッシュがそれぞれの世界で生み出した「子どもたち」という意味をも超えて、他ならぬ私たちが、その決断において生み出すであろう未来の「子どもたち」をも含意しているといえるかもしれない。
作者は1964年生まれのイギリス系カナダ人女性作家、詩人でもある。
物語は2015年、介護施設にいる89歳(1926年生まれ、私の10歳上)の老婦人、パトリシアの回想からはじまる。
彼女は施設の看護人などから意識が混乱しているとみなされている。確かに、認知に侵されてはいるものの、聡明なパトリシアは自分の混乱を自覚している。
彼女の記憶は二重なのだ。二つの記憶がオーバラップしている。子供の数は?記憶のディティールにおける様々な差異と二重性、それらが同居している。
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なぜそうなのかを彼女は回想する。
少女時代、多感な学生時代などの記憶は一つのものとして統一されている。
しかし、ある契機でこの統一は破れ分裂する。
その契機とは、彼女が23歳の折、敬愛する男性から求婚された際に生じる。
一人のパトリシアはそれを真正の愛と受け止め、結婚を承諾するだろう。
そしてもうひとりのパトリシアは、彼をめぐるやや微妙な問題点を感受したのか、その求婚を受け入れることはないだろう。
ここに二つの可能性に応じた物語、そう、SFでおなじみのパラレルワールドが展開することとなる。
結婚したパトリシアとしなかったパトリシアが交互に登場する。
これが結構な大河小説なのである。文庫本だが細かい活字で450ページもある。
やがて、パトリシアの呼称も別れることとなる。
結婚しなかった方はパット、した方はトリッシュ。
かくして、パットとトリッシュの物語は交互に展開される。
それが微妙に(ほとんどそれとわからないほどに)クロスするエピソードがあるのも面白い。
この二人の経験と記憶は、最終章において、施設に入った89歳の老女、パトリシアの記憶において統合されるだろう。ただし、二つに分裂したそれぞれに異なる記憶として。
ここまでお読みになった人は、つまるところウイットに富んだ、SF定番のパラレルワールドものだとお思いになるであろう。
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そう、それが物語の大筋であり骨子である。
普通、私が映画や物語を紹介する場合、あとからご覧になる方のためにここまでネタバレ風に書くことはない。
その禁をあえて破ったのは、ここまで種明かしをしてもじゅうぶんに面白いからである。
まず両方のパラレルワールドは、私たちが知る現代史と平行に進みながら、微妙に違う。片方では小規模な核戦争が起こり、その弊害は主人公たちにも及ぶ。もう一方も月世界での基地の存在などリアルな世界とは微妙に異なる。
しかしその双方とも、決して荒唐無稽ではなく、私たちが共有するこの現実の中でじゅうぶん起こり得ることなのだ。
しかし、面白さはそこにではなく、そしてそれが荒唐無稽な物語を免れることになるのだが、その双方に、戦争と平和、テロル、ジェンダーやフェミニズム、女性の社会進出、政治参加の問題、同性婚や複数婚を含む結婚の形、それに伴う家族の形、親子の問題、認知症の問題、介護の問題、相続の問題などなど、まさに私たちが直面している問題が、評論としてではなく物語そのものの、パットの方もトリッシュの方もそれと対峙しなければならないストーリーそのものの必要不可欠なファクターとして登場してくることである。
それによってこの小説は、思いつきとしてのパラレルワールドのシチュエーションにはとどまらず、それを超えたものとなる。
ここでは、(普通の)結婚をしなかったパットの方も、そして(普通の)結婚をしたトリッシュの方にも、リアルな問題に直面しながら成長してゆく女性の、というか人間のありようへの真摯な対応が読みどころといえる。
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既にみたように、その二つの人生が、最終章で、パトリシアという老女に於いての重複した二つの記憶として回収されるわけだが、そこでパトリシアは自らに問うている。
どちらの選択が何をもたらしたのか。それが自分にとって、世界にとってどうだったのかと。
ここには、例のアマゾンの奥地での蝶の羽ばたきが世界に何をもたらすのかという「バタフライ効果」にも似た問いがある。私たちの人生にはたった一度の分岐点や決断ではなく、多くの分岐点(そうとは気づかれないものも含めて)があり、その数だけ決断に迫られているとしたら、それらが私を造ると同時に世界をある相のもとに現前せしめるという意味において、そこには倫理的な問題が含まれているともいえる。
それをも考え合わせると、タイトルの『わたしの本当の子どもたち』はパットとトリッシュがそれぞれの世界で生み出した「子どもたち」という意味をも超えて、他ならぬ私たちが、その決断において生み出すであろう未来の「子どもたち」をも含意しているといえるかもしれない。