今年始めて名古屋へ出る。
今日は目の保養と決めて、まずは映画を観ることに。
映画を観たあとで知ったのだが、アキ・カウリスマキ監督はこの映画を最後としてもう映画を作らないといっているようだ。私よりも二〇歳も若く、六〇歳になるかならぬかなのに、まだ早すぎるではないか。独特のその作風をまだ観たいではないか。
それから、これもはじめて知ったのだが、彼はアメリカの監督、ジム・ジャームッシュと親交があるという。ジャームッシュといえば、昨秋観た『パターソン』(これも素晴らしかった)を思い出す。そういえば、二人の作風には過剰な説明を排除した映像という点で共通点があるかもしれない。
今回観た『希望のかなた』は、フインランドに流れ着いたシリア難民というそれ自体はかなり重いテーマによるものだ。しかし彼は、それを高所大局から語ろうとはしない。
主人公を取り巻く人びとの、じわじわ~っとした情感のようなものの蓄積、それが物語を紡ぎ出してゆく。具体的にいえば、難民問題を政治的にどうするのかといった「現実」を超えた「もうひとつの現実」、いくぶん固い言葉でいえば人間への共感、その尊厳へのプリミティヴでリアルな反応、それが随所々々で現れ、彼を窮地から救い出してゆく。
しかし、現実はそればかりではない。一方には、もはや言語や情感を超えたところで、差異を排除する憎悪のみに支配された連中がいる。ネオナチ風スキンヘッドの連中がそれで、彼らは理不尽な暴力で彼に襲いかかるのだが、これもまた「もうひとつの現実」なのだ。
格差社会の中で底辺へと貶められた彼らは、仮想敵としての難民や移民に有無を言わせず襲いかかる。それらは、「ヘイト」や「フェイク」の言説によって日々その憎悪を増殖してゆく。
しかも今日、それらは国際的に認知された一つの立場なのだ。それに太鼓判を押しているのはアメリカ大統領トランプの立場そのものといってよい。
そして、それほど顕わではないにしても、この国の為政者はそれと同じ方向を向いている。否、難民認定率(難民申請を認めた率)については、0.6%と先進国中ダントツで最低なのだ。この数字の惨めさは、アメリカにおけるそれが23.4%であることからも歴然としている。つまり、アメリカにおいては4人に1人は認められる難民申請が、この国では1,000人に6人しか認められないということだ。ちなみに2015年にこの国が迎え入れた難民は27人、2016年は28人です。
ブルゾンちえみ風に「それでは質問します。世界にいる難民は何人?」 「6,500万人!」。
それはともかく、映画はあくまでも難民である主人公と共感で繋がる人たちとの交流で構成されてゆく。しかしながら、そうした善意の繋がりの反面、現実はそうともばかりいえないことも示唆している。
難民としての彼の最大の目標は逃避行の中で別れわかれになってしまった妹を見つけることにあり、そしてそれは善意の繋がりによって実現するのだが、それ自体がはたしてハッピーエンドな物語であったかどうかはその妹の表情の中にいささかの疑問として残っているとみるのは穿ちすぎだろうか。
まあしかし、カウリスマキの映画は、一見ドライとみえる人間の関係のなかにある暖かさが描かれたものが多いのだから、この映画もその面からポジティヴに観てゆくのがいいのかもしれない。
まあ、堅い話を抜きにしてもじゅうぶん楽しめる映画である。日本の寿司文化の「インターナショナルな」広がりを揶揄したような一場面は場内のどよめくような笑いを誘っていたし、使われる音楽はどれも北欧風のイントネーションを伴ったもので、それらはジャンルの違いを超えて、日本の古きよき時代の「流行歌」に似た哀愁を帯びたものであったりする。
こうした音楽の使い方はまた、カウリスマキの独自のやり方で、それらはたんなるバックグラウンドであるばかりではなく、映画の中の現実音としてその存在を誇っている。
この映画は、昨年からの続映なのだが、昨年のそれはデジタル版だったのに対し、年が明けてからの今回観たものは35ミリのフィルム版とのことだ。しかし、それら両者を比較して観たことがない私には、残念ながらその違いを知ることはできなかった。おそらく画質に違いがあるのだろうが、ひょっとしたら編集そのものも多少違っているのだろうか。
映画の後、名古屋市美術館でのシャガール展を観て、ときおり寄る私の隠れ家のような居酒屋で、今日観たものを反芻しながら地酒などをたしなみ、早い時間に帰った。
雪こそ舞わなかったが、名古屋、岐阜とも、とても寒い一日だった。
*これを書いてから、キネマ旬報の17年ベストテンを見たら、この『希望のかなた』は洋画部門で7位に入っていた。
1位は『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ)、第2位は『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)で、この両方とも観ている。ほかに6位の『沈黙ーサイレンスー』も観ていて、結局ベストテンのうち4本は観ていたことになる。
去年は映画を観る機会はあまり多くはなかったが、それでもまあまあ、一般的に評価されるものを観ていたことにはなる。あるいは、キネ旬風の基準に飼い慣らされたというべきか。
今日は目の保養と決めて、まずは映画を観ることに。
映画を観たあとで知ったのだが、アキ・カウリスマキ監督はこの映画を最後としてもう映画を作らないといっているようだ。私よりも二〇歳も若く、六〇歳になるかならぬかなのに、まだ早すぎるではないか。独特のその作風をまだ観たいではないか。
それから、これもはじめて知ったのだが、彼はアメリカの監督、ジム・ジャームッシュと親交があるという。ジャームッシュといえば、昨秋観た『パターソン』(これも素晴らしかった)を思い出す。そういえば、二人の作風には過剰な説明を排除した映像という点で共通点があるかもしれない。
今回観た『希望のかなた』は、フインランドに流れ着いたシリア難民というそれ自体はかなり重いテーマによるものだ。しかし彼は、それを高所大局から語ろうとはしない。
主人公を取り巻く人びとの、じわじわ~っとした情感のようなものの蓄積、それが物語を紡ぎ出してゆく。具体的にいえば、難民問題を政治的にどうするのかといった「現実」を超えた「もうひとつの現実」、いくぶん固い言葉でいえば人間への共感、その尊厳へのプリミティヴでリアルな反応、それが随所々々で現れ、彼を窮地から救い出してゆく。
しかし、現実はそればかりではない。一方には、もはや言語や情感を超えたところで、差異を排除する憎悪のみに支配された連中がいる。ネオナチ風スキンヘッドの連中がそれで、彼らは理不尽な暴力で彼に襲いかかるのだが、これもまた「もうひとつの現実」なのだ。
格差社会の中で底辺へと貶められた彼らは、仮想敵としての難民や移民に有無を言わせず襲いかかる。それらは、「ヘイト」や「フェイク」の言説によって日々その憎悪を増殖してゆく。
しかも今日、それらは国際的に認知された一つの立場なのだ。それに太鼓判を押しているのはアメリカ大統領トランプの立場そのものといってよい。
そして、それほど顕わではないにしても、この国の為政者はそれと同じ方向を向いている。否、難民認定率(難民申請を認めた率)については、0.6%と先進国中ダントツで最低なのだ。この数字の惨めさは、アメリカにおけるそれが23.4%であることからも歴然としている。つまり、アメリカにおいては4人に1人は認められる難民申請が、この国では1,000人に6人しか認められないということだ。ちなみに2015年にこの国が迎え入れた難民は27人、2016年は28人です。
ブルゾンちえみ風に「それでは質問します。世界にいる難民は何人?」 「6,500万人!」。
それはともかく、映画はあくまでも難民である主人公と共感で繋がる人たちとの交流で構成されてゆく。しかしながら、そうした善意の繋がりの反面、現実はそうともばかりいえないことも示唆している。
難民としての彼の最大の目標は逃避行の中で別れわかれになってしまった妹を見つけることにあり、そしてそれは善意の繋がりによって実現するのだが、それ自体がはたしてハッピーエンドな物語であったかどうかはその妹の表情の中にいささかの疑問として残っているとみるのは穿ちすぎだろうか。
まあしかし、カウリスマキの映画は、一見ドライとみえる人間の関係のなかにある暖かさが描かれたものが多いのだから、この映画もその面からポジティヴに観てゆくのがいいのかもしれない。
まあ、堅い話を抜きにしてもじゅうぶん楽しめる映画である。日本の寿司文化の「インターナショナルな」広がりを揶揄したような一場面は場内のどよめくような笑いを誘っていたし、使われる音楽はどれも北欧風のイントネーションを伴ったもので、それらはジャンルの違いを超えて、日本の古きよき時代の「流行歌」に似た哀愁を帯びたものであったりする。
こうした音楽の使い方はまた、カウリスマキの独自のやり方で、それらはたんなるバックグラウンドであるばかりではなく、映画の中の現実音としてその存在を誇っている。
この映画は、昨年からの続映なのだが、昨年のそれはデジタル版だったのに対し、年が明けてからの今回観たものは35ミリのフィルム版とのことだ。しかし、それら両者を比較して観たことがない私には、残念ながらその違いを知ることはできなかった。おそらく画質に違いがあるのだろうが、ひょっとしたら編集そのものも多少違っているのだろうか。
映画の後、名古屋市美術館でのシャガール展を観て、ときおり寄る私の隠れ家のような居酒屋で、今日観たものを反芻しながら地酒などをたしなみ、早い時間に帰った。
雪こそ舞わなかったが、名古屋、岐阜とも、とても寒い一日だった。
*これを書いてから、キネマ旬報の17年ベストテンを見たら、この『希望のかなた』は洋画部門で7位に入っていた。
1位は『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ)、第2位は『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)で、この両方とも観ている。ほかに6位の『沈黙ーサイレンスー』も観ていて、結局ベストテンのうち4本は観ていたことになる。
去年は映画を観る機会はあまり多くはなかったが、それでもまあまあ、一般的に評価されるものを観ていたことにはなる。あるいは、キネ旬風の基準に飼い慣らされたというべきか。