いくらロシア革命の痕跡をたどる大昔の左翼少年の感傷旅行とはいえ、サンクトペテルブルクへ来た以上、エルミタージュを外すわけにはゆかないだろう。
それにここは、ロマノフ王朝終焉の地であり、既に述べたように臨時政府が居着いた場所でもあった。ようするに、革命によって権力が移りゆく、まさにその舞台だったのだから。
もちろん、ここにそれがあることは少年時代から知っていたが、近年になってここをさらに印象づけたのは、アレクサンドル・ソクーロフの映画、『エルミタージュ幻想』(2002年)であった。
この映画では、監督=主人公が、その姿を見せぬまま、突如現れた19世紀のフランス人外交官キュスティーヌ伯爵に先導される形でエルミタージュの絢爛豪華たる各部屋を巡るという構成で、サンクトペテルブルクを築いたピョートル大帝や、この場所に幾多もの財宝、芸術品を収集し、その豪華さに一層華を添えた女帝エカテリーナⅡ世などの歴史的人物がひょいと現れ、まさに幻想の世界を生み出していた。
この映画は、その内容にもまして注目されたのは、90分間という長さにもかかわらず、ワンカットで、つまり終始、一台のカメラでのみ撮影されたということであった。つまり、カットの切れ目、編集によるつなぎ合わせが一切なかったのである。
予めそれを知っていた私は、目を凝らして画面を見続けたのだが、ラスト近く、ヴァレリー・ゲルギエフが指揮するサンクトペテルブルク交響楽団の音楽に、貴族たちの群れが館外へ送り出されて逝く場面まで、それらがどのように撮影され、ワンカットで表現しえたのかまったくわからなかった。
もっとも、映画撮影の技法にはまったく暗い私にとっては、ヴィスコンティの『山猫』の冒頭シーン、野外から建物を俯瞰していたカメラが、窓からスーッと入って屋内を写し始める方法すら、何度観てもわからないのだが。今なら、ドローンを使って容易に可能なのだろうが。
それはさておき、この映画は革命遺跡・サンクトペテルブルク・エルミタージュへの私の関心を一層掻き立てるものだった。革命の舞台を、そして、ナチスドイツ軍の900日の包囲に耐えて守り続けたその収蔵品を、この目で見てみたいという欲望はいや増しに高まったのだった。
一言でいえばそれは壮大だった。
まず全体のロケーション。エルミタージュの中心冬宮前の宮殿広場は、モスクワの赤の広場、北京の天安門前の広場に伍するような広大さを誇り、その広場の中心に立つアレクサンドルの円柱(ナポレオン戦争に勝利したアレクサンドルⅠ世を賛美した47.5メートルの円柱の塔)を挟んだ向こう側には、半円形の長大な建造物、旧参謀本部が横たわっている。
なお、この宮殿広場は、1905年1月、ガボン神父に率いられたまったく平和で素朴な要求を掲げた請願デモに対し、その数の多さ(約6万人)に仰天したのか皇帝の軍隊が発泡し、少なめにみても、1,000人(多めには4,000人とも)が死傷した「血の日曜日事件」の現場である。
その結果として皇帝崇拝への幻想は一挙に払拭され、1917年の革命の遠因になったといわれる。
エルミタージュそのものの構成そのものも壮大である。一般に、エルミタージュというと、エメラルドグリーンと白の華麗な外壁をもつ建造物をイメージしそうだが、その部分は冬宮であって、エルミタージュの一部に過ぎない。エルミタージュ全体の構成は写真とともに説明しておくのでそちらを参照されたい。
ネヴァ川対岸から観たエルミタージュ その壮大な構成がみてとれる 写真左からエルミタージュ劇場 旧エルミタージュ(薄茶色) 小エルミタージュ 冬宮殿 と続き、新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある
その冬宮を中心とした部屋に、エカテリーナⅡ世が収集した古今東西の美術品が展示されているのだが、それらは古代エジプト・ギリシャの遺物から西洋の中世の宗教画、古典派から印象派に至る絵画など枚挙にいとまがない。
それらをちゃんと観て歩くとひとつに1分をかけるとして何年にも及ぶとのこと、駆け足旅行者の私には望むべくもない時間を要する。
それらは、ダヴィンチ(2点)、ラファエロ、カラヴァッジオ、グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ルーベンス、ダイク、レンブラント、ルノワール、セザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴーギャン、ルソー、マティスとビッグネームのみ挙げてもきりがないくらいだ。
ここでは、私が一度本物に会いたいと思っていたカラヴァッジオの「リュートを弾く少年(若者)」を載せておこう。なお、この絵の下方にある楽譜は、いまでもそれを見て弾くことができるほど精巧かつ正確に描かれているという。
エルミタージュは、ロマノフ王朝後期に開花した壮大な徒花ともいえる。そこには伝統と押し寄せる新しい波との葛藤があり、エレガンスとヴァイオレンスの相克があり、文化の芳香と軍靴の響きが共存し合う空間が開けていた。
1917年のロシア革命は、一旦はそれらの矛盾をひとつに収拾し、新たな開けへと向かうはずだったが、それが実際にはどのように終始したかは今日では周知のとおりである。
孔雀を中心としたからくり時計 長い間止まっていたが、その仕組みの解明にによって次第に正確な時刻を刻むようになってきたという
しかしながら、それはどのように総括されているのだろうか。日本の戦後史について、亡くなった加藤典洋が指摘していたように、ロシア革命とその終焉の歴史、その中にあるねじれもまた、放置されたままではあるまいか。
私は、自分史との関連で、この問題領域の周辺を容易に去ることはできない。
今回の旅は、私なりの執拗さがなしたものだと、改めて感じている。
歴史には、質量があり、アウラがある。
それがサンクトペテルブルクの地を踏んだ実感であった。
そしてそこでは、20世紀初頭を幻視する私がその痕跡の鮮やかさに圧倒されながら徘徊しているのだった。