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六十数年前の左翼少年の感傷旅行 for サンクトペテルブルク

2019-08-08 17:05:56 | 旅行
 サンクトペテルブルクという都市を初めて知ったとき、ここはレニングラードと呼ばれていた。ただし、私が書物の中で読んだそれはペトログラードであり、そう呼ばれていたのは第一次世界大戦以降の1914年からレーニン死後に、レニングラードと名付けられたわずか10年余に過ぎない。ことほどさようにこの都市の名称は三転四転して、それはまた、この都市がどのような状況を生きてきたかをも現している。

        
        
 ヘルシンキで乗り換える 私は乗れなかったが去年お目にかかった作曲家、シベリウスの楽譜とサイン入りの空港のシャトルバスに今年もお目にかかった
 
 ペトログラードと呼ばれたその10年の間に、まさに世界を揺るがせた大事件、ロシア革命が起こっていて、少年ながら時代の閉塞を感じていた六十数年前の私は、当然のようにそれに関心をもち、その革命の終始に触れた書物に目を通しながら、密かに胸踊らせたものである。
 
 それらの書は、ジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』であったり、E・H・カーの『ボリシェヴィキ革命』であったり、あるいは当時の「正当左翼」からは禁書扱いであったトロツキーの『ロシア革命史』であったりした。
 とりわけ最後のそれは、当時の角川文庫全10冊で、仲間内で回し読みをし、一巡して帰ってくる頃にはぼろぼろになっていた思い出もある。

        
 サンクトペテルブルク郊外のプルコヴォ空港 1941年~44年のナチスドイツ軍の包囲作戦の最前線基地 都市中心部から17キロ地点

 まだ、その革命の去就について詳細を知りえなかった少年後期の私は、ボリシェビキの権力奪取の課程のみを講談本にも似た思いで、手に汗握って読みふけった。
 それはまさに、他ならぬ庶民、労働者や農民、兵士たちが権力を握り、自分たちの未来の開けのためにそれを行使するという、夜明けを告げる物語であった。人類が自覚的に自分の歴史を創造するという初めての試みだと思った。

 いまとなって、まだそれをいうかといわれそうだが、それはそれで正しかったというほかはない。
 ただし、それが私が夢見たようにはならなかったという厳然たる事実は捻じ曲げることは出来ず、それはそれで深く総括されねばならないことはいうまでもない。

        
           ホテルの向かいの建物

 繰り返すが、六十数年前の私にとってはそれに思いい至るすべもなく、ある種のロマンスとしてそれらの物語を受容したのだった。そしてその舞台こそが、このペトログラード、いや、いまの名はサンクトペテルブルクなのである。


 西に向かって開かれているというロシア第二の都市(人口は約500万)サンクトペテルブルクは、おなじみのエルミタージュ宮殿を始め、後期ロマノフ王朝の絢爛豪華な建造物やそこへと収集された世界からの財宝、とりわけ美術品の数々でよく知られている。
 また、この都市は、1812年のナポレオンによる侵攻を撃退し(チャイコフスキーの『序曲1812年』はこれによる)、1941年から44年まで続いたナチスドイツ軍による900日間に及ぶ包囲戦を、多くの餓死者を出しながらも耐え忍んだ歴史をもつ。

 豊富な歴史的エピソードに彩られてきた都市だが、その歴史は意外と浅い。この都市は、おおよそ300年余前、フィンランド湾に面したネヴァ川河口のデルタ地帯にピョートル大帝によって人工的に作られたもので、旧市街は宮殿を要に扇状に広がり、各幹線道路もそれに即して扇の骨のように各地方へと展開している。
 教会の尖塔などを除いたら、あまり凹凸のない建築物が並んでいて、気持ちのいい街並みといえる。

        
        
        
           公園内を通る人々 その服装に注目されたい 

 この街に3日間、正確には2日半ぐらい見て歩いたのだが、随時その記事を掲載したい。
 なお、宿泊したホテルは小公園に隣接していて、朝夕通勤時にはここをショートカットして通る人、犬を散歩させる人などが往来するのだが、その服装を見てほしい。日本でいうなら完全に冬の出で立ちである。そうなのだ、38度の名古屋を発って来た私には信じられないような気温だった。

        
       ホテルへバイクで乗り付けたカップル 大音量で音楽を流していた

 朝夕は8~9℃と10℃を下回り、最高気温が20℃に至らないのだ。その点で私は持参する衣類の選択に完全に失敗した。いくら緯度が高くとも季節は夏、とばかりにTシャツにポロシャツ程度を準備したのだが、それらを着ることはまったくなかった。
 念のためにと持参した冬用の長袖のシャツ一着とサマージャンパーにずーっとお世話になったのだった。
 もちろん、予め気候などを調べてはおいたのだが、それをも大幅に下回る寒さだった。

        
        
         ホテルの食堂では、朝夕、薪の暖炉が焚かれていた

 昨日、7日に帰国したのだが、「しまった、帰ってくるのではなかった」というぐらいの暑さ、しかも、湿度が半端ではない。今日8日も同様だ。

【この都市の呼び名の整理】
 1703年 ピョートル大帝がモスクワからここへ遷都 サンクトペテルブルク
 1914年 ドイツとの開戦によりドイツ風を改めペテログラードにする
 1924年 レーニンの死に伴いその名をとってレニングラードに
 1991年 ソ連崩壊に伴い、最初のサンクトペテルブルクへ
 
 
コメント (1)
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