「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句はどういうわけか子供の頃から知っている。どこで覚えたのであろうか。父からかもしれない。
亡父は、句心などとはまったく無縁であったが、警句や箴言のようなものはよく知っていた。
世の移り変わりの早さと、桜の咲き際、散り際、その変化の早さを対比させたこの句は、「うがち」にたけているので、川柳だとばかり思っていたのだが、大島蓼太 という江戸中期の俳人の作だと知ったのは後年のことだった。
なぜ改めてこんなことを書き出したかというと、今年、まさにわが家の桜でそれを実感しているからである。
先月の下旬のことだった。わがPCをケーブルレスで使用していると、二時間弱でダウンし、画面が突然真っ黒になってしまうことを二度ほど経験した。かつてはよく持ち歩いたが、今はスマホと連動させているのでその必要もあまりないといえばない。しかし、やはり気になるのでショップへ持ち込み診断、修復のため入院させることとした。
ショップの予診では退院までに一週間ないし一〇日間を要するとのことだった。
まあ、その間はスマホでしのげばいいと思っていたのだが、それが甘かった。メールやSNSなどの受信は問題ないのだが、こちらからの発信が大変なのだ。
まずは、文字盤からポチョポチョ入力するのに慣れていないせいで、一つの文章を書くのに、キーボードからに比べると一〇倍以上の時間とエネルギーを要する。
その他にも、文章と写真を同時にアップする方法などがよくわからない。わかったのは、自分がまさにスマホ原人だということだった。
と同時にわかったのはPC上での情報交換が、スマホ時代の今では、かつてのPC時代とはまったく違ってきたという事実である。
二十数年前のパソコン通信からMixiを経て、FBやTwitterに辿り着いたのだが、それらはすべてPCでの対応を通じてだった。そうしたPC時代の習慣が抜けきらず、いまだに、つい長い文章をくだくだと書き綴っているのが現状である。
気がつけば世の中はもう、一〇〇文字超の短いフレーズで、ツイート=つぶやき合う時代になっているのだ。
しかし、私のような頑固なアナログ脳は、短い表現では量的にも質的にも伝えきれない情報があるのだと信じ込んでいて、いまなお、起承転結へのこだわりからテイクオフすることができない。所詮は、スマホ脳へと「進化」することはできないのだ。
「三日見ぬ間の桜」の話だった。
スマホが入院した2月28日、私が最後にPCから載せた記事は、わが家の早咲きの桜が、一、二輪の開花を見たということだった。したがって、PCが帰ってくる頃には満開かなと思っていた。
しかし、違ったのだ。
PCは当初の予定に反して、四日間の入院で、三月の三日、雛祭りの日に帰ってき。そして、その前日に降雨があったこともあって、桜の方は一挙に満開状態になったのだった。
まさに、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」の感が強い。
なお、私がスマホ脳への進化から取り残されている現実は「三日見ぬ間」よりもスパンが長いのだがが、やはり、気がつけば著しい変化があったという意味で、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」であろう。
ただし私は、これまで同様、長い文章をダラダラと書き続けるだろう。「桜パッと咲いてパッと散った」というのは戦闘集団の武士やヤクザの世界の美学であって、私にはなじまない気がする。私はいつまでも花咲かなくともいいし、きれいな散り際なども望みはしない。
ただ、自分に納得できる表現をコツコツ継続する以外にないと思っている。
*写真最初は、まだ咲き残っている紅梅。その他は、わが家の桜の時間系列を示したもの。始点は2月28日、最後は3月3日。