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巡洋艦オーロラ号の数奇な足跡を巡って @サンクトペテルブルグ

2019-08-10 11:56:10 | 歴史を考える
         
 ネットや書物では見ていたが、現物を目の前にして気品があり美しいと思った。とはいえ、相手はれっきとした兵器、戦前の幼年期に零式戦闘機に憧れをもったことはあるが、以後、兵器に対してはそうした感情はもったことがない。
 にもかかわらず、眼前の巡洋艦オーロラ号にそうした感情をもったとしたら、この艦が経てきた数奇な運命を予め知っているからだと思う。

 サンクトペテルブルクはネヴァ川河畔に、それは係留されていた。たしか、戦の任務から解かれてもう100年近くになるのだが、それは端正な姿のうちにあまたの歴史の痕跡を秘めたまま、そこに厳然としてあった。

         
    添えられた銘板には「アヴローラ」とあるが、これはロシア語でオーロラを意味する
 
 今回の六十数年前の左翼少年のサンクトペテルブルク訪問に関し、前回のレーニンが演説した旧クシェシンスカヤ邸のバルコニーと、このオーロラ号は絶対に欠かせない箇所であった。それは後述するように、ロシア革命の最終段階において、この戦艦の果たした役割が決定的だったからだ。

         
 この戦艦は日本語表記ではオーロラ号であるが、ロシア語ではアヴローラという。意味はともにオーロラで構わない。
 巡洋艦オーロラ号は1897年にサンクトペテルブルクの造船所で建造された。
 この艦の最初の出番は日露戦争で、バルチック艦隊の一員として日本へと向かったのだが、サンクトペテルブルクを出港していくばくもしないバルト海で、日本の水雷艇が迫っているとの誤った情報により、艦隊のうちの二艦がイギリスの漁船を誤射してしまう。これはイギリスに対するロシア側の謝罪と損害賠償でケリが付いたが、なんとこの際の流れ弾がオーロラ号を傷つけたという。

         
         
           艦首に翻るのは旧ロシア海軍の軍艦旗
 
 そして1905年5月には、日本海海戦で日本の連合艦隊と対峙し、バルチック艦隊は敗北を喫する。オーロラ号は艦長が戦死し船も損傷を追うが、かろうじて脱出し、フィリピンの港で補修し、帰国する。

 この艦の次の出番はロシア革命時、1917年である。サンクトペテルブルクにいたオーロラ号では、艦内に水兵によるソビエトが組織され、レーニン率いるボルシェビキに同調していた。
 ロシア海軍の兵士たちが革命的であったのは、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』にも描かれているし、また後の、「クロンシュタットの反乱」も水兵たちによるものだった。もっともこの最後の例は、レーニンたちのソビエト運営に反旗を翻したものだったが、革命政府はそれを武力で鎮圧したのだった。

         
      この艦の係留地点の近くに、日露戦争での戦没者の慰霊碑が建っていた
            
 この辺り一帯が、現在も海軍関係の施設が多く、これは海軍士官学校の入り口 そのせいもあってセーラー服姿のまだあどけなさの残る士官学校生徒もちらほら 彼らが戦場に出る日がないことを願う
 
 オーロラ号に戻ろう。10月17日の蜂起で、ボルシェビキの勝利は濃厚だったが、なお、中途半端なケレンスキー率いる臨時政府というものが冬宮に本部を置いていて、ボルシェビキの印刷所襲うなどの反抗を繰り返していた。
 それに対し、10月25日、このオーロラ号の砲撃を合図に、ボルシェビキ軍が冬宮へと進撃した。冬宮では、臨時政府がなす術もなく鳩首会談を繰り返していたが、ボルシェビキ軍が突入した際、首班のケレンスキーはかろうじて脱出し、その他のメンバーは全員その場で逮捕された。

         
            
         
 ケレンスキーの臨時政府が本拠にしていた冬宮、孔雀石の間 並びにそれに続く部屋 銘板が添えられていたが、暗いところでフラッシュ禁止のためボケてしまった 見学する人も部屋の豪華さに見とれて、そこが歴史的事件の現場であったことには興味がないようだ

 ケレンスキーが逃亡する際、女装をしてアメリカのジャーナリストの車で逃げたという説もあるが、確認はされていない。
 なお、ボルシェビキ軍が突入した際、臨時政府が陣取っていたのは冬宮の「孔雀石の間」という部屋で、私はそれを確認してきた。

 オーロラ号の話はまだ尽きない。
 1941年から44年まで続く900日間のナチスドイツ軍の当時のレニングラード包囲のなか、もはや戦艦としての使命を終えて、練習船としてネヴァ川河畔に係留されていたオーロラ号に対するドイツ軍の攻撃は執拗で何次かにわたり、ついに沈没(といっても水深が浅いため着底)の憂き目を見ることとなった。
 その後、浮揚され、大規模な改修が行われ、しばらくは練習船として利用されたが、1956年以降は「記念艦」として一般公開されて今日に至っている。

         
 その艦を眼前にして、私のうちでの幻視幻聴は、ネヴァ川の川面を揺らす砲撃音であり、それを合図に、労働者や農民、兵士からなるボルシェビキ軍が冬宮へ殺到する場面であった。
 そしてそれは、六十数年前の左翼少年の私が見た夢とまったく同じであった。まるで私は、その幻視幻聴を再確認するためにサンクトペテルブルクくんだりまで来たかのようであった。

 その折の彼らの行為が後世からみてどうだったのかは厳密に検証されるべきだとは思うが、しかし、当時のペトログラードの街を駆け回った人々の、自分たちの未来は自分たちの手でという思いは、否定すべくもないと思うのだ。
 むしろ、バタバタしたってどうせ現状は変わらないのだからという取り澄ましたニヒリズムのうちで暮らす現今の私たちより、よほど純粋だったと思いたい。
 こういうロマンチシズムはやはり反動的な思いに過ぎないのだろうかと自問はしている。
 それにしても、数奇な歴史を生きてきたオーロラ号はとても美しく輝いていた。









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2 コメント

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Unknown (ひつじ)
2019-08-10 16:38:48
ゼロ戦設計者の堀越二郎をモデルにした、宮崎駿の「風立ちぬ」が、論争を呼びました。宮崎は軍用機もふくめて飛行機が大好きだということでしたね。極限まで合理化される兵器の造形は「美しい」のだと思います。どう表現するか難しいですね。
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兵器 (六文銭)
2019-08-10 18:11:38
>ひつじさん 
 いらっしゃい。たぶん初めてだと思います。
 兵器の場合、それ自体としては美しいものもあるし、アメリカ軍が運用するMQ-9 リーパーのように、機能本位でなんだかオドロオドロしいものもありますね。
 いずれにしても、私のように戦時中の空襲などを経験した者にとっては、憧れの的だった航空機に、空から雨あられの爆弾を浴びせられて、美しいとか言っていられなくなった経緯もあります。
 実際のところ、兵器がそれとして使用されなくなり、このオーロラ号のように、ある種のオブジェとしてそこにいてくれる場合には、素直にその有様を愛でることができます。
 これからもまた覗きに来てください。
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