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バルコニーからの言葉 レーニンの「四月テーゼ」@サンクトペテルブルグ

2019-08-09 12:12:00 | 歴史を考える
 1917年2月、ロシアで2月革命が勃発し、ロマノフ王朝の専制政治が倒れたことを知ったレーニンは、亡命先のスイスから急ぎ帰国することとなった。帰国にはドイツ領内を通過せざるを得ない。しかし、当時ロシアとドイツは第一次世界大戦で敵国の関係、 そこでレーニンはドイツと交渉し、列車での通過を認めさせる。

 その背後にあった事情は、当時の国際的労働者運動の組織、第2インターナショナルの各国幹部が、戦争が始まるや自国政府の方針に従い戦争に賛意を表するナショナリストへと戻るなか、レーニンなど少数の社会主義者のみがインターナショナルな立場を堅持し、戦争そのものへの反対を表明していたことが大きく関わっている。
 つまり、ドイツは、レーニンをロシアに送り込むことによって、対ロシアの東部戦線の圧力を回避できると踏んだわけである。

         
         
 旧クシェシンスカヤ邸には二つのバルコニーがある 上は邸の側面で道路に面したもの 下は正面玄関上のもの さてレーニンはどちらで演説をぶったのか 片言の英語でかろうじて確認した結論は道路側とのこと そうでなくっちゃ ちまちまっとした玄関前ではなく道路いっぱいに広がる民衆に話してこそ絵になるというものだ

 そんな事情が絡んで、レーニンはドイツ領を無事通過し、ロシアへと戻ることが出来た。これが、いわゆる「レーニンの封印列車」のエピソードである。

 ロシアへ戻ったレーニンが最初に着手したのが、この革命をどんな方向に向かって進めるかの方針の表明であった。「四月テーゼ」といわれるそれを、彼は論文として発表すると同時に、旧クシェシンスカヤ邸(現:政治歴史博物館)のバルコニーから、道路に溢れる民衆に向かって訴えかけた。

            
                  
 ここは著名な観光地ではない だから人影もまばらで閑散としてる 観光客というよりロシアの若い人たちが歴史探訪に訪れているのだろうか 私のようなジジイの東洋人は珍しい客といえる 下はバルコニーを少し違うアングルから 

 その内容は簡潔にいえば次の二点になる。
 1)国家が君たちに武器をもたせ、彼らを撃てと他の国の民衆を指差すとき、君たちはその銃口を、君たちに銃をもたせた者たちに向けるべきである。なぜなら、他の国の民衆は君たちの敵ではなく、君たちに銃をもたせた者たちこそ、君たちの真の敵なのだから・・・・「帝国主義戦争を内乱に!」

 2)革命によって宙ぶらりんになっているすべての権力を、労働者、農民、兵士からなる自治組織ソビエトへ集中しよう・・・・「すべての権力をソビエトへ!」
 これが、革命成立後、この国が「ソビエト社会主義共和国連邦」といわれることとなった理由である。

 ここで私見を挟むなら、私はこれらの方針は正しいと思う。ただし、残念ながら、すべての権力はソビエトのものとはならなかった。その点を、1919年のドイツスパルタクス団蜂起の際、カール・リープクネヒトとともに虐殺されたローザ・ルクセンブルグも当時、既に鋭く批判をしていた。

 では権力はどこに行ったのか。共産党のもとにである。この遠因はレーニンの『何をなすべきか』という著作のなかに記されている党組織論にある。
 それによれば、労働者や農民の自然発生主義には限界があるから、それによるのではなく、意識した前衛集団=党によってすべてが執り行われる必要があるとするものであった。

 これにより、権力は共産党の一極支配のもとに置かれ、ソビエトは党の方針を伝達するのみの機関になってしまった。そしてそれが、党独裁、後のスターリン独裁を生み出してしまった。
 ここでは詳論しないが、西洋がになうプラトン以来のイデアリズムの一つの帰結がここにあるといえる。

         
         
 おなじみマトリューシカのお土産店 めったに土産を買わず、しかも自分のためのものは買わない私だが、ここでは迷わず下のものをゲットした このお三方、いわずとしれたレーニン、スターリン、そしてプーチン ロシア革命後100年間の歴史が、この三体に凝縮されている 別に彼らを崇拝しているわけではありませんからお間違いなく

 この街はトラディショナルな建築様式を重んじていて、それだけに100年ほど前の状況を容易にオーバーラップすることができる。
 このバルコニーでレーニンが演説し、労働者や農民、兵士たちが、冬宮をめがけて駆け回ったあの日々、ジョン・リードの叙述に見られるように、そこには革命的ロマンティシズムが息づいていた。それらが暗転することも含めて、歴史のリアリズムが街のあちこちに刻印されている。

 四月テーゼ発表後、レーニンは反対派からの「ドイツのスパイ」呼ばわりにより、身の危険を感じて一時、フィンランドへ列車で逃れることになる。
 私も、この街での終りは列車でのヘルシンキ行きになる。
 ただし、この街を離れる前に、まだまだ見ておくべき事柄が多い。

 次回は、ロシア海軍の巡洋艦、オーロラ号をめぐるその数奇な運命について述べよう。日露戦争とロシア革命の二つのエポックを生き抜いたこの軍艦についてだ。

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