村上春樹の小説はほとんど読んだことはない。別に嫌いな訳ではない。好悪を語る以前の問題でとにかく読んでいないのである。
なぜ読まないのか。それは単純で、あまり人様が騒ぎ立てるものには近寄るまいという反骨精神によるものである。それでも、騒ぎが収まった頃、そっと読んでみるということもあるのだが、彼の場合、ハルキストとかいう人たちが、かつてPCのニュータイプが発売されるや前日から並ぶという儀式まがいのものとほぼ同様の騒ぎを見せたり、ノーベル賞に際しては、まるでプロ野球のドラフト指名候補選手が待機するような集団行動が見られたりで、騒ぎが継続し、彼を読むことはその騒ぎに加担するかのような恥ずかしさを覚えざるを得なかったのだった。
しかし、村上春樹も70歳を過ぎ、大谷翔平に人気を奪われたのか(んなわけないか)、それともハルキスト自体が老齢化し疲れが出たのか、そんな騒ぎも最近は少し収まったようなのだ。それが証拠に、私がいつもゆく図書館の新刊コーナーに彼の新作があったのである。これまでならそんなことはなかった。刊行と同時に予約が殺到し、それを考慮して図書館側も複数冊を用意して備えるのだが、ちょっと遅れて予約をしても何ヶ月待ちが通例であったという。
それが、今年の春発刊のものが、図書館の手続きを終えて、借り手の予約もないままに新刊の棚に並んでいたのだ。でもって、それを借りてきた次第。
『街とその不確かな壁』がそれ。著者のあとがきによれば、これは当初、1980年、「街と、その不確かな壁」というやや長い短編小説として雑誌「文學界」に載せたものだが、その際も、それ以降も納得できないまま、彼の書いたものでは唯一単行本化されないままでいたものを、40年を経た2020年からリライトをはじめ、650ページ超の長編に仕上げたものである。
実際のところ、私自身の年齢もあって、これだけのボリュームのあるものを読むのにはかなり精力を消耗する。
小説は、実体と影、リアルと夢幻、動と静寂、生と死などの二項対立を背景に、時としてはその対決、矛盾、和解、共存などを描写してゆく。第一部、第二部、第三部(これは短い)からなっていて、二項対立からいえば第二部が実体、リアル、動、生の世界で、第一、第三がその逆といえる。
しかし、現実にはその相互は固定されておらず、第二部のリアルな世界にも、特定の人にしか交流不可能という幽霊がかなり重要な存在として出現する。
そして、その相互の世界はある種の人たちにとっては行き来が可能なのであって、実際のところこの小説は主人公がふとしたはずみで幻影の世界へ赴き、そこで「夢を読む」図書館に通いながら(第一部)一定期間後そこから現実世界へと帰還し、今度はリアルな図書館(それ自身いくぶん怪しげな図書館ではあるが)に勤務するのだが(第二部)、そこで出会った不思議な少年の失踪と絡んで再び幻影の世界への姿を表し(第三部)そして・・・・というストーリーなのである。
あ、肝心なことをいい忘れたが、タイトルの「不確かな壁」をもった「街」こそが、この第一部、第三部の舞台となる針を持たない時計台を持った静謐な夢幻といくぶん活力を欠いた静寂な「街」であり、「不確か」とはいえ、通常は乗り越え不可能な城郭都市のような「壁」に囲まれた「街」なのである。
門はあるのだが、そこにはカフカの「掟の門前」よろしく、いかめしい門番がいて、その行き来を阻み、主人公は当初、その門番によって自分の影を引っ剥がされることによってやっとその街の住人になるのだ。
結局、主人公は、不可能といわれたその街を脱出することによって第二部の「現実の」世界へ至るのだが、その方法は書くまい。実際のところ、第三部においても主人公はこの「街」から脱出を図るのだが、その方法はまた当初と異なっている。
こうしたパラレルワールドともいえる二つの世界を、主人公は行き来するのだが、それは浄土宗のいう浄土と俗世との往相と還相のようでもある。ただし、どちらが往相でどちらが還相であるかは読者の判断に委ねられるだろう。
たった一冊の読書で、村上春樹について云々することができるとは思わない。まあしかし、ワンダーランドへの導入とその展開は独特で、村上文学の片鱗に触れた思いがしたことは確かである。