一昨年、わが家では琵琶の木、桑の木などのかなりの大木を諸般の事情で伐採したこともあって、蝉がとまる木が少なくなっている。両方とも樹液が豊富で蝉が好む樹だったと思う。
しかし、何年も前に地中に産み付けられた幼虫はそんなことは知らないままに育ち、地上に姿を表す。
昨日の朝、洗濯物を乾しにでたら、地上30センチぐらいの草の先端に何やら茶色いものが。もしかしたら抜け殻と思ってそっと触ってみたら、弾力があってまだ中身が詰まっている。
この辺りは、上に述べた桑の木があったところだから、そこへよじ登るはずが、あてが外れて草の葉にとまっているのだろう。
いずれにしても、無事に羽化することを願ってそのままにしておいた。
そして夕刻、それは同じところに止まっていた。触ってみると殻だということがわかる。そして背中の部分には切れ目がくっきり。そう無事羽化したのだ。
そのうちに近くにある木で鳴き出すだろうと思ったがその確率は二分の一。そう、蝉は雄しか鳴かないからだ。
そして今日、その近くで何やら気になるものを見つけた。羽の形をしたこれら、私の判断によれば、アブラゼミの羽だ。そして羽だけが散乱しているということは・・・・本体は何ものかに襲われ、食われてしまった可能性があるのだ。
これが前日羽化したものの羽だとは断定できないが、その可能性はじゅうぶんにある。
そしてさらに、少し離れた箇所で見つけたのが女郎蜘蛛が張り巡らした巣、そしてそれに絡め取られているのはどうやら蝉のようなのだ。
これら三つの映像が、最初に目撃したものの連続であるとはむろん限らないが、地下で長い年月を過ごした蝉が、地上に出た途端、その生を終えたということはどうやら事実のようだ。
蝉は七年地中にいて、地上に出て七日を過ごすと聞いたが、これはその種類や個体によって差異があり、長いものは地中で一七年過ごすものもいるし、地上での生活を約一ヶ月謳歌するものもいるという。
いずれにしても、私たち地上を生活の場としている者にとっては、地上に出て何日かでその生を終える、あるいは今回の事態のように地上の生活を始めようした途端に不慮の事態に遭遇するということはとても憐れにも思える。
しかし、蝉にとってみれば、地中での生活は決して無為ではあるまい。そして、それは単に地上に出るためのモラトリアムの期間ではあるまい。それ自体が彼らの生活そのものなのだ。そして地上への登場は、彼らにとっては死にゆくための終活の期間にすぎないのかもしれないのだ。
そうでも考えないと、その死はあまりにも惨めではないか。
最後の写真の女郎蜘蛛は、囚われた蝉にとっては憎っくき仇だが、公平にみた場合、その捕獲もまた蜘蛛の生業であり、それを責めることは出来ないのだ。
それに、この女郎蜘蛛自体がこの辺では希少になりつつある。私がここへ来た半世紀前には、周囲が田んぼで立体的な建造物がなかったせいか、この女郎蜘蛛と、体長が3~4センチもあり、雀の子も捕ると言われた鬼蜘蛛との縄張り争いのような様相で、家の周りは蜘蛛の巣でいっぱいだった。
鬼蜘蛛は図体はでかいが、まん丸っこくてどこか愛嬌があり、張り巡らした巣の一部を刺激してやると、ツツツとばかりに現れてしばらくその対象を探すのだが、なにもないとわかるとすごすごと引き上げるのだった。
しかし、この鬼蜘蛛をみなくなってから久しい。
女郎蜘蛛もうんと減ってしまった。だから、せっかく羽化した蝉を捕らえても、それを責めるわけにはゆかないのだ。
蜘蛛の話になってしまったが、ここで蝉に関するトリヴィアをひとつ。
蝉の声というのは、この時期の夏の日本を象徴するもので、映画やドラマでも、この鳴き声をバックに流すだけで季節や場所を示すのだが、欧米諸国には蝉は希少で、その鳴き声はおろか、それを見たことすらない人が多いらしいのだ。
で、日本映画の吹き替えをする際には、この蝉の鳴き声は消されるのだという。欧米の人にとっては、それは季節感などを表すものではなく、たんなるノイズ、もしくは不可解で不快な音色に聞こえるようなのだ。
そういえば、昨年の8月はじめ、ロンドンに一週間ほど滞在し、ホテル近くのラッセルスクエアの小公園の木陰でよく休息したのだが、大小の樹木が緑なしていたにもかかわらず、いっさい蝉の声は聞かなかった。日本でのロケーションからいえば、蝉時雨があって当然のところだったのに。代わりに、リスがうろちょろしていた。
バッキンガム近くでの森林公園様の箇所でも、小鳥の声のみで蝉はとんといなかった。
私の家では、毎年このこの頃からアブラゼミとニイニイイゼミが鳴きはじめ、夏の終りにはツクツクボウシが鳴いていたのだが、それもたぶん終わってしまうのだろう。
もう周辺に樹木がある家がなくなり、無機質な今様の住宅が立ち並ぶなか、彼らにここに住めと強要することはできなくなってしまった。
これは蜘蛛たちにとっても同様である。
【おまけの話】名古屋の友人たちの報告によれば、温暖化等の影響もあって、名古屋は既に北上を続けるクマゼミが多数派になりつつあるようだが、岐阜はそうではない。
私の仮設では、愛知・岐阜の間にある木曽川がそれをはばんでいるのではないかということだが、それも時間の問題かもしれない。
しかし、何年も前に地中に産み付けられた幼虫はそんなことは知らないままに育ち、地上に姿を表す。
昨日の朝、洗濯物を乾しにでたら、地上30センチぐらいの草の先端に何やら茶色いものが。もしかしたら抜け殻と思ってそっと触ってみたら、弾力があってまだ中身が詰まっている。
この辺りは、上に述べた桑の木があったところだから、そこへよじ登るはずが、あてが外れて草の葉にとまっているのだろう。
いずれにしても、無事に羽化することを願ってそのままにしておいた。
そして夕刻、それは同じところに止まっていた。触ってみると殻だということがわかる。そして背中の部分には切れ目がくっきり。そう無事羽化したのだ。
そのうちに近くにある木で鳴き出すだろうと思ったがその確率は二分の一。そう、蝉は雄しか鳴かないからだ。
そして今日、その近くで何やら気になるものを見つけた。羽の形をしたこれら、私の判断によれば、アブラゼミの羽だ。そして羽だけが散乱しているということは・・・・本体は何ものかに襲われ、食われてしまった可能性があるのだ。
これが前日羽化したものの羽だとは断定できないが、その可能性はじゅうぶんにある。
そしてさらに、少し離れた箇所で見つけたのが女郎蜘蛛が張り巡らした巣、そしてそれに絡め取られているのはどうやら蝉のようなのだ。
これら三つの映像が、最初に目撃したものの連続であるとはむろん限らないが、地下で長い年月を過ごした蝉が、地上に出た途端、その生を終えたということはどうやら事実のようだ。
蝉は七年地中にいて、地上に出て七日を過ごすと聞いたが、これはその種類や個体によって差異があり、長いものは地中で一七年過ごすものもいるし、地上での生活を約一ヶ月謳歌するものもいるという。
いずれにしても、私たち地上を生活の場としている者にとっては、地上に出て何日かでその生を終える、あるいは今回の事態のように地上の生活を始めようした途端に不慮の事態に遭遇するということはとても憐れにも思える。
しかし、蝉にとってみれば、地中での生活は決して無為ではあるまい。そして、それは単に地上に出るためのモラトリアムの期間ではあるまい。それ自体が彼らの生活そのものなのだ。そして地上への登場は、彼らにとっては死にゆくための終活の期間にすぎないのかもしれないのだ。
そうでも考えないと、その死はあまりにも惨めではないか。
最後の写真の女郎蜘蛛は、囚われた蝉にとっては憎っくき仇だが、公平にみた場合、その捕獲もまた蜘蛛の生業であり、それを責めることは出来ないのだ。
それに、この女郎蜘蛛自体がこの辺では希少になりつつある。私がここへ来た半世紀前には、周囲が田んぼで立体的な建造物がなかったせいか、この女郎蜘蛛と、体長が3~4センチもあり、雀の子も捕ると言われた鬼蜘蛛との縄張り争いのような様相で、家の周りは蜘蛛の巣でいっぱいだった。
鬼蜘蛛は図体はでかいが、まん丸っこくてどこか愛嬌があり、張り巡らした巣の一部を刺激してやると、ツツツとばかりに現れてしばらくその対象を探すのだが、なにもないとわかるとすごすごと引き上げるのだった。
しかし、この鬼蜘蛛をみなくなってから久しい。
女郎蜘蛛もうんと減ってしまった。だから、せっかく羽化した蝉を捕らえても、それを責めるわけにはゆかないのだ。
蜘蛛の話になってしまったが、ここで蝉に関するトリヴィアをひとつ。
蝉の声というのは、この時期の夏の日本を象徴するもので、映画やドラマでも、この鳴き声をバックに流すだけで季節や場所を示すのだが、欧米諸国には蝉は希少で、その鳴き声はおろか、それを見たことすらない人が多いらしいのだ。
で、日本映画の吹き替えをする際には、この蝉の鳴き声は消されるのだという。欧米の人にとっては、それは季節感などを表すものではなく、たんなるノイズ、もしくは不可解で不快な音色に聞こえるようなのだ。
そういえば、昨年の8月はじめ、ロンドンに一週間ほど滞在し、ホテル近くのラッセルスクエアの小公園の木陰でよく休息したのだが、大小の樹木が緑なしていたにもかかわらず、いっさい蝉の声は聞かなかった。日本でのロケーションからいえば、蝉時雨があって当然のところだったのに。代わりに、リスがうろちょろしていた。
バッキンガム近くでの森林公園様の箇所でも、小鳥の声のみで蝉はとんといなかった。
私の家では、毎年このこの頃からアブラゼミとニイニイイゼミが鳴きはじめ、夏の終りにはツクツクボウシが鳴いていたのだが、それもたぶん終わってしまうのだろう。
もう周辺に樹木がある家がなくなり、無機質な今様の住宅が立ち並ぶなか、彼らにここに住めと強要することはできなくなってしまった。
これは蜘蛛たちにとっても同様である。
【おまけの話】名古屋の友人たちの報告によれば、温暖化等の影響もあって、名古屋は既に北上を続けるクマゼミが多数派になりつつあるようだが、岐阜はそうではない。
私の仮設では、愛知・岐阜の間にある木曽川がそれをはばんでいるのではないかということだが、それも時間の問題かもしれない。