時折、篠突くような雨の降る土曜日、近所のサークルの人たちといくぶん遅い紫陽花でも見にゆこうかと岐阜県は池田町、そして本巣方面に向かった。当初は、もっと山深い板取方面へとのことだったが、連日の降雨で危険もあるとのことで急きょ変更したのだった。
雨に煙る花の写真もたくさん撮ったが、それらは花の好きな友人たちに任せるとして、その帰途、思いがけないものに遭遇したのだった。
それは両界山横蔵寺から岐阜へ向かう県道235号線を、懐かしい思いを抱いて(なぜかは後述)走っていいるときだった。道路に並行して、廃線になった鉄道のプラットフォームがくっきりはっきりと残っているのを目撃したのだ。
それは、2001年10月に廃線になったかつての名鉄谷汲線の駅跡である。かつての北野畑駅跡である。廃線になって20年近く、こんなにはっきりとプラットフォームが残っているところは珍しい。明らかに人の手によって保たれているとみた。
そもそも、谷汲線とはなんぞやという岐阜限定のローカルな話題を一般化する努力をすべきだろう。谷汲線は岐阜県大野町黒野と西国三十三満願霊場・谷汲山華厳寺のある谷汲を結ぶ路線だった。ただし、黒野始発ももちろんあったが、岐阜市の忠節駅発の揖斐線経由で黒野から分離してゆくものや、岐阜市の中心地、名鉄新岐阜駅(現在の「名鉄岐阜」)前始発で、岐阜市内線を走り、忠節駅から揖斐線を経由し、谷汲まで行くものもあった。
なぜ私がこの電車を懐かしむかというと、高校時代の教師がこの路線の終点、谷汲近くの長瀬というところの寺の住職をしていて、在学中も、卒業してからもよくその寺へ遊びに行ったからである。そのメンバーもほぼ決まっていて、高校の文系サークルを仕切っていた五人組であった。仕切っていた文系サークルとは、新聞部、演劇部、歴史研究部、文芸部などであった。この五人のメンバーは、これらの部を横断的に行き来していた。
夏休みに、これら文系サークルの合同キャンプなども行ったことがある。その内の歴研の顧問がこの教師だった。
寺は広くて集まりやすい。だから何かというとこの寺に集まり、夜を徹して天下国家に激論を飛ばしたり、無鉄砲な文学論議に花を咲かせた。その折、往復に利用したのがこの路線だった。高校生の頃はもちろん、社会に出てからもいつも電車を利用していた。
マイカーブームなどというのは私の世代が30代を迎えたあとの話なのであった。
だからこの土曜日、私が車の窓から眺めた根尾川(揖斐川支流)西岸などの県道235号線の風景は、今から60年~50年前、かつての谷汲線の車窓から眺めたものだったのだ。そして、このプラットフォーム跡・・・・、私のうちに、衝かれるものがあったはご理解いただけるだろう。
ついでながら、この地点に至る前、かつて私たちの訪れたこの教師の寺は、彼が亡くなって(嗚呼、その折、弔事を読んだのは私であった)以降、引き継ぐ者がなく、廃寺になり、しばらくその建造物自体はあったが、いまでは取り壊され、八重葎の荒れ地になっているのを目撃してきたばかりなのであった。
さらにいうなら、かつてその寺を訪れた五人組のうち、すでに二人は他界している。
廃屋、廃墟、廃線などにいくぶんフェチ気味な私だが、かつての様相をはっきり残しているこの駅の佇まいに、過剰な反応をしたのかもしれない。そこには、わが青春の痕跡が、具体的なカタチを伴って残っていたのだから。
写真でご覧になるようにフォームは一本で、レールも手前側一本に見えるが、じつはこの駅、単線の相手方との調整をするためのいわゆる一面二線駅で、向かって左の、いまはススキや山の木々が侵食している側にも線路があった駅である。
最後に、ネットから拾った現役時代の写真を載せておこう。これは谷汲方面から見たもので、フォームの向こうに、いまはなき駅舎も写っている。その駅舎のあたりは、私が撮った写真では、瓦礫が若干残っていて、たしかにここになにか建造物があったのではという幽かな痕跡を残すのみだった。
なお、廃線時の一日の乗降客数は10人以内だったとのこと。
ちょっと湿っぽい話になったので、ここで笑えない冗談を少々。
「廃線」と「敗戦」を惜しむ人にそれぞれ。
*廃線を惜しむ人に
「廃線になる前、その路線にどれだけ乗っていましたか?」
*敗戦を惜しむ人に
「無謀な戦争に突入する前、それにどれだけ反対しましたか?」