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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

一日に二度泣いた! 八十路の涙腺を緩ませたものは?

2021-10-12 00:23:02 | 想い出を掘り起こす

 一日に二度泣いた。正確に言うと、一度は泣きそうに、そして二度目は人前もはばからずほんとうに泣いた。

 10月10日のことだ。午前、いつものように、火鉢で飼っている二尾の金魚の水を少しだけ変え、毎日やっている餌をやはり毎日と同じように与えた。ここ半年間、それでもって彼らは元気に過ごしてきた。
 それから洗濯物を干しに行ってしばらくしてから火鉢を覗くと、なんだか一尾の様子が変だ。体をひねるようにしたり、横っ腹を見せたりで、ふざけるというよりなんだか苦悶している様子だ。

 なんか毒物でも口にしたのだろうか。慌てて別の容器に新しい井戸水を汲んで、水温も確かめ、その金魚をそちらへ移した。毒を吐けばなどととっさに思ったのだ。しかし、効果はなかった。次第に動きが緩やかになり、しばらくはピクリとするように体を動かしていたが、やがてまったく動かなくなった。しばらくそのままにしておいたが蘇生する動きはない。ご臨終だ。
https://www.youtube.com/watch?v=Yaw_z1lPG7U
 彼らが来た頃は、私が近づくと、さっとホテイアオイの影などに隠れてしまい、そこを離れるまで姿を見せなかったのに、最近では近づくと水面に出て餌をせがむようになり、餌をやる段になると、私の手から食べるようにさえなっていたのに・・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=yzvhdnVZVIk
 も一匹はと見ると、何事もなかったように悠然と泳いでいる。翌日、つまり今朝になっても、残された一尾は全く変わりない。ただし、時々もつれるようにして戯れていた相手がいなくなって寂しそうに見える。
 これがこの日最初の涙を誘う出来事だった。

 本当に涙を流してしまったのは夕刻であった。
 この日、午後からは私の属している会の例会がじつに久々に開催され、その会場が今池であった。会の中身は、音楽評論家の先生と、音楽愛好家の弁護士先生との対談形式の講演で、「 法の視座から見た《フィガロの結婚》」という面白い企画であった。

             

 その散会が夕刻とあって、この今池で30年間居酒屋を営み、いわば第二の故郷ともいうべき地を黙って去る手はないと、自分がかつて店をやっていた地点を中心に しばらく散策を試みた。当時からあった店舗、全く様相が変わってしまったところ、などなど懐かしさやその変貌ぶりに感慨を新たにしながら時を過ごした。

             
 
 やがて秋の陽が傾き始めたので、どこかで一杯と、ローマ字表記にすると私と同姓同名になる今池の情報通がかつて紹介していた「本と酒 安西コーブンドー」という店へ入ることとした。はじめての店であるが、古民家を改装したその店のまさに改装する前の住人も知っていたのだった。
 「本と酒」というのはカウンターの背後に書架がしつらえられ、そこにジャンルを問わず様々な本があり、客はそこから 好みのものを選び、それに目を通しながら酒を嗜むことができるということである。

             
 私にはさして読みたい本はなかったので、店のマスターを捕まえ、最近の今池事情などを聞こうと話しかけた。その話の経緯で、 かつて私がこの辺で店をやっていた人間であることが明らかになってしまった。
 この街を離れて、20年になるのに、私が去った後のニューカマーにも私の名前が知られているのは意外であり、光栄でもあった。

 当初、客は私を含めて3人。そのうちのひとりは着物姿の若い男性。しばらくして帰るということで私のそばを通りかかった際「お似合いですね」と声をかけ、「〈蘭丸〉さんのご関連ですか」と尋ねると、「ええ、昨日蘭丸で買ったばかりの着物です」とのこと。
 〈蘭丸〉はやはり今池で、Kさんという女性の経営する着物と付帯する小物などのお店で、そのKさんとは、彼女がその店を始める前、まだフリーライターのような仕事で、私のやっていた居酒屋に取材に来た頃からの知り合いだから30年以上の付き合いということになる。

             
                  コーブンドーの裏窓から・1

 さて、店のカウンターに戻ろう。着物姿の男性が帰り、離れたところにいた若い女性と二人のみになった。いい歳をしたジジイが声をかけるような無粋な真似はもちろんしないが、なんとなく気になる様子もあった。
 それはともかく、店のマスターそのものが映画が好きそうなので、私自身もその設立にわずかながら関わった今池にある名古屋シネマテークについて語り合った(私の店はその同じビルの地下にあった)。
 テオ・アンゲロプロスやホドロフスキーの映画に開眼させられた想い出、開店前に映画を観て、駆け下りて仕込みをした話など・・・・。

             
                  コーブンドーの裏窓から・2

 そうするうちに、その女性も次第に話に参加するところとなり、「じつは私の父もシネマテークの創立以来関わった来たのです」とのこと。えっ、えっ、えっ、・・・・「で、お父さんのお名前は?」「ハイ、Yです」「え?あのYさん?しばらくお目にかかっていませんがお元気ですか?」「・・・・5年前に亡くなりました」。

 Yさんが亡くなった・・・・そしてその娘さんがいま眼前に・・・・ここでジーンとこみ上げるものがあった。目頭が熱くなり、やがてこみ上げるものを抑えきれず、ハンカチで目を覆った。

 Yさんとはとりわけ懇意で何ごとも話し合うというほどではなかったが、それでもシネマテークの他のメンバーに比べると個人的接触が多かったといえる。彼は証券会社のアナリストという市井の仕事をこなしながら、シネアスト運動、シネマテークの運営にも力を入れていて、一時期、シネマテークや私の店と同じビルの5階に部屋を借りていいたこともあって、私の店への来店の度合いも多かった時期があった。

               
             若き日の園子温 ただし、私が逢ったころは下駄履きだった

 とくに思い出深いのは、Yさんの部屋には、当時既に「ぴあフィルムフェスティバル」などではグランプリを獲得するなど知名度は高かったもののメジャーデビューする前の園子温が同居していたことである。その時期、Yさんと園子温はお揃いでよく私の店のカウンターに来てくれた。
 そんな意味でも、その後メジャーデビューし、「愛のむきだし」や「冷たい熱帯魚」「恋の罪」などの傑作をものにし、いまやハリウッドに進出している園子温の今日も、Yさんとの交流なくしては語れないのではとさえ思う。

 中折れ帽に当時は下駄履きであった園子温は、Yさんと共に今池を闊歩していた。その想い出、その前後につながる名古屋シネマテークの思い出、そしてそれに関わってきた私自身と私の店、そこに集ってくれた映画好きの人々、演劇好きの人々、同人誌に集う文学仲間、現代思想を熱く語る面々、それらの人たちの話に接しながら耳学問をしていた私・・・・・・・・。
 それらの想い出が、一瞬、ギュッと詰まって私に迫り、さらなる私の涙を産むのだった。

 いま、自分の老いを嘆いている私だが、私はじゅうぶん恵まれ、幸せだったのだとおもう。チューブを絞れば出てくる想い出の数々、捨ててしまいたいもの、苦くて惨めなもの、忘れてしまいたいもの、それらはもちろんある。しかし、それを上回って今となっては、まさにその時期、そこに居合わせたこと自体の幸運のようなものがじんわりと押し寄せてくるのだった。

             
                ハロウィンの装飾と中央線千種駅のホーム
 
 涙にはカタルシスの作用がある。まさにそんな涙であった。
 そんなシチュエーションを与ええくれたコーブンドーのマスター、そして、Yさんと彼をめぐる他ならぬ私自身の一時期をまざまざと思い起こさせてくれたYさんの娘さんに感謝します。
 VIVA! イマイケ!


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