「喉元過ぎれば熱さ忘れる」、「人の噂も七五日」、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」などなど、人の世の移ろいやすさ、それに伴う人びとの忘却の速さを示す言葉は結構ある。
現在、それを痛感しているのは今月はじめ、2類感染症から5類感染症(一般的なインフルエンザ同様)に引き下げられ、それに伴う規制も大幅に緩和されたいわゆる新型コロナに関する問題である。
この三年半にわたる経過のなかで、親しいものを亡くしたり、大幅な損出を被った人たちには忘れがたいものが残るであろうが、そうではない人々にとってはとっくに過去の出来事としてしまい込まれてしまったのではないか。
それを促進したのは、これまでの新聞やTVなどのメディアで必ず目にしていた感染者数、死者数などが表示されなくなり、その実態がわからなくなったことによるところが大きい。昨今の表層的なメディア社会では、報道されないこと=なかったことなのである。
もちろん、このまま収束過程が進み、「普通の風邪」になることは好ましいし、周辺を見渡したところ、そんなふうになっているようにも見える。
しかし一方、新たな感染症が時折、この惑星で発生・繁殖し、グローバルな風に吹かれて瞬く間に蔓延するであろうことは容易に想像しうるところである。
そうだとすれば、今回の一連の過程を一通り時間の経過に従って整理し振り返ってみてもと思って読んだのが表題の小説である。
2019年秋に始まり、各日付を小見出しとし、時間の経過に従って進むこの小説は、2022年6月6日、ワクチンが普及し、その収束への展望が見え始めるところで終わる。
主人公は三人。
一人は大病院の女性医師。
一人はその病院の看護師(女性)。
この二人は、その病院のコロナ病棟の担当に専任される。
もう一人はベテランの町医者。
この三人は、それぞれ連携をもつ場面はあるのだが、それがメインではない。
むしろ、三者三様のなかで、コロナ禍と闘うその困難さに焦点が当てられている。
女医は、小学校への就学前の男の子を抱えるシングルマザーである。その母がその息子を支えてくれるとはいえ、しばらくは息子とは会えない別居生活の中での治療が要請される。
女性の看護師は、相思相愛と思われる男性と結婚を前提とした同棲生活をしているが、コロナに立ち向かう彼女の決意を理解しない男性から、「そんなのただの風邪だろう」とさっさと医療現場から離れての結婚を迫られている。
ベテランの開業医は、都市の大病院に勤務する息子から、「自分は医院を継がないよ」と宣告されながら、老骨にむち打ち、まちなかの受け入れの最前線に立っている。
この三人は、初期のとどまるところを知らない感染の拡大、重症者看護の困難、病床や医療機器の不足などなどとたたかわねばならない。それらの過程が緻密に描かれる。
ワクチン進捗状況や政府の施策などが淡々と記録される。医療関係者の尽力をあざ笑うようなGOtoトラベルキャンペーン、政治家たちの会食・・・・そして三人の肩にのしかかる「家族」の事情。
それらを日付を追って記録されるこの小説は、それぞれが抱える問題の収束と同時に、冒頭に述べたように、私たちの記憶から薄れつつあるこの間の歴史的事実を整理して残してくれる。
この作者、やけに医療に詳しいと思ったら、東京慈恵会医科大学卒のれっきとした医学子であった。
なお、この小説にはワクチン否定論者も出てくる。作者はそれに否定的で、テロも匂わせる実力行使には怒りをもってそれを記述している。
じつは、私のSNS仲間にも一定のワクチン否定論者がいる。ワクチン接種による健康被害が過小評価されているというのだ。たしかにワクチンの否定面も無視できないかもしれない。
しかし、ワクチンで死んだ人はコロナの死者を上回り、それが隠蔽されているとか、ワクチン接種そのものが某方面の人類抹殺計画であるなどの陰謀論的な色彩を帯びると、やはりついては行けない。
小説としての評価は私には出来ないが、これを読むうちに、ああそうだった、そんなこともあった、今から考えるとあそこがターニングポイントかなどと思い当たるふしが多々ある。
*本の表紙以外の写真は内容に関係がない私の近影です。
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