窪地から見上げると、その稜線には大勢の人(?)影がひしめいていて、まるで一昔前の西部劇で観た、カウボーイがネイティヴアメリカンに取り囲まれているシーンのようだった。
「どうだ、大勢いるように見えるだろう。それがヤツの戦術なんだ。これに恐れをなしたら、もうその術中にはまったようなもんだ」
と、この辺の事情に詳しいオジサンがいった。いかにも狐狩りには慣れきったような落ち着いた口調だった。そして、続けた。
「ズラリ並んだように見えるが、実体は唯一つ、あとは幻影さ」
なるほどそういわれてそれらの影を凝視すると、そのどれもが陽炎のように揺らめいて見える。
「お前はあの緩斜面から登れ。俺はあの藪あたりから登る」
と、オジサンが指示した。いわれたとおりに緩斜面を登る。途中、季節外れのタンポポが咲いていて、踏んづけそうになる。
登りきって稜線に出ると、生暖かい風が首筋を舐めるように吹きすぎてゆく。やがて向こうから、オジサンが大股でやってくる。
「何もいなかったか」
「ハイ、いませんでした」
「すばしっこいやつだなぁ」
とつぜん甲高い声が響く。
「アラアラ、大の男はんがお二人もお揃いにならはって、なんもなしとはほんま、ご苦労はんどすなぁ」
と、大日本愛国婦人会のようなパリッと糊付けされた純白の割烹着の女性が現れてひやかすようにいう。
「そんなことより酒はあるのか」
と、オジサンがいう。どうも二人は連れ合いかそれに近い関係らしい。
「合点承知の助、ぬかりはござんせん」
と、割烹着は今度は一転して江戸弁風に答える。
彼女を先頭に歩く。
折から雲間からの陽ざしが強くなり、地上の影もくっきりする。
とんでもないことに気づいてしまった。
先頭を行く割烹着の影から、ススラボ~ンと太いしっぽが生えているのだ。私は、オジサンの脇をつついてその影を顎で指し示した。オジサンは、万事心得ているという表情でゆっくり頷きながら、いたずらっぽい視線を返してよこした。
なにか策略があるのかもしれない。
藁葺の一軒家に着くと土間には立派なケヤキの一枚板でできたテーブルがあり、それには不似合いな折りたたみのパイプ椅子が無造作に何脚か置かれている。
オジサンはどっかとそのひとつに座り、顎をしゃくって座れという。割烹着は、ワラビ模様を白抜きにした藍染の暖簾をくぐって、厨房と思われる方に入っていった。オジサンは無言のママ、テーブルを指先でコツコツ叩いている。
とつぜん、厨房の方からソプラノが響いた。ドボルザークの「わが母の教え給いし歌」だ。あの割烹着の声だろうか。なんかこの場と不釣り合いな展開に驚いてオジサンの顔を見ると、歌声に合わせるようにウンウンと頷き、やがて、その瞳がじんわり潤んできて、年季の入った目尻の小じわあたりにまで・・・・。なんだかよくわからないままに、あたりは荘厳な気配に満たされてゆくかのようだった。
そのとき、けたたましいベルの音が響いて状況を台無しにした。私は怒りに任せてソレを払い除けた。
ソレは、枕元から落ちて床の上で、なおもしつこく、私が設定した時刻に忠実にベルの音を鳴らし続けるのであった。
(「夢六話」より 其之弐)
*「わが母の教え給いし歌」 佐藤しのぶさんを偲んで
https://www.youtube.com/watch?v=tAE6hp269XM