ライプチヒは住みやすそうな街である。直径数百メートル位かと思われるいわゆるリング内にほとんどのものが揃っている。K氏が勤務していたライプチヒ大学もそうである。彼が退職後もここにその居を定めたのはよくわかるような気がする。
ところでこのリング内には著名な2つの寺院がある。
その一つは聖トーマス教会である。ルター派のこの教会は音楽史上の巨人、かのバッハの活躍の根城として知られている。1685年生まれのバッハは、それまであちこちで音楽修行をしその腕を上げてきたが、いずれの地でも短期間の滞在で終始してきた。
1723年このトオマス教会の音楽監督(カントル)に就任にも一悶着あったようだが、なんとか決定を見るや、1750年にその生涯を終えるまでここの地に定住し、この教会のみかこの街のカントールにも就任した。
音楽監督に就任した後のバッハは毎週1曲、要するに年間約50曲のカンタータを作曲演奏すると言う精力的な活動をこの教会のために行うなど、精力的に活躍した。また「マタイ受難曲」などの名曲もこの教会での初演であった。
しかしその当時は、テレマンやヘンデルなど他のバロック音楽家に比べるとその知名度はあまり高くなかったとも言われている。その彼の知名度を一躍上げるためには、もう一つの エポックがあるのだが、それについてはまた述べよう。
いずれにしてもこの聖トオマス教会でのバッハの活動は、音楽史上における不可欠な大きな出来事であったことは事実である。この教会とバッハの名は、分離しがたいものとして語り継がれていくことであろう。
もうひとつの教会の聖ニコラウス教会は創建こそは聖トーマスより教会よりも古いのだが、今日にまで継続するある歴史的エピソードの場としても知られている。
東独時代、 市民の集会等は実質的に禁止されるなか、教会における集まりは許容されていた。1989年秋、この教会でわずかな人数による月曜ミサで、東独民主化の話が交わされた。やがてそれらは市民の間に広がりを見せ、翌週には何百人、続いて何千人とついには教会にはとても入り切れない万を数える群衆が東独の民主化を求めて市の広場全体をを埋め尽くすに至った。
この運動はライプツィヒにとどまらず、東独各地に点火拡散、しベルリンにもまた飛び火することとなった。そしてそれが あの11月9日のベルリンの壁崩壊に至ったと言われる。
これらの事実から、ベルリンの壁崩壊の数週間前にさかのぼってこの問題を提起し、拡散したのは、まさにこの聖ニコラウス教会の月曜ミサにに集まったライプチヒの市民たちであるという誇りを、今なおこの街の人たちはもっている。
規模としてはさほどの大都市ではないにもかかわらず、どことなく誇り高く悠然としたライプチヒ街の雰囲気はそんなところに起因するのかも知れない。
これがライプツィヒの数百メートルも離れない2つの教会の物語である。
【付】ライプチヒで私を出迎え、素麺をご馳走してくれたK氏につき、その趣味の山水画が素人裸足であることを述べたが、その最新作が届いたので以下に紹介する。
どうだろう。参照しているのが中国のそれということもあって、日本の山水画のある種の鋭角さがなく、鷹揚な感じがするのだが・・・・。それともそれはK氏自身の性格に起因するのだろうか。