もう先月のことになるが、都知事の会見があり、コロナ禍が新たな段階に差し掛かるほんの前、琵琶湖南部の大津から、湖西、湖北へ赴く機会があった。
石山寺、三井寺、竹生島などは何年ぶりかの再訪であった。このうち、竹生島は三回目であったが、七〇年近く前の中学生の頃、半世紀以上前のサラリーマン時代といったことで、やはりこれだけ間があくと、思い描いていたイメージとはかなり違ったものがあった。
その差異を述べていたらきりがないので、今回ははじめて行った箇所を書いておくことにする。
そのひとつは石山の裏手にある幻住庵で、ここは芭蕉が一六九〇年に四ヶ月ほど過ごした山荘である。
その概要をWikiから引用しておこう。
「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲した小庵。ここで「奥の細道」に次いで著名で、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」を著した。
ちなみに、この山荘に来る前、芭蕉は次回に述べる義仲寺の中の無名庵で過ごしている。
山荘に話を戻そう。ナビを頼りに目指すのだが、山の麓とおぼしきその周辺に近づいても、どこに車を止めてどう行けばいいのかがよくわからない。駐車場らしきところで掃き掃除をしている男性に尋ねると、まさにそこがそうで、掃除の手を止めて、案内しましょうといってくれた。
次第に鬱蒼とする山のなか、どこへ向かってよいのかわからない折から、ありがたい案内の申し出である。
まあ、土地の人だから、しばらくついて行けばひょいと幻住庵に着けると思ったのが甘い考えだった。なんと、写真のような階段が延々と続くのだ。
この角を曲がったらという期待を何度も裏切って、なおかつ階段は続く。
案内の男性は、ここへ来た以上、それは覚悟の上でしょうとばかりにスタスタ歩を進める。こんなはずじゃなかったよ、と顎が上がりそうなところで男性は足を止める。
そして、「これがとくとくの清水です」とのこと。芭蕉の幻住庵記にある、「たまたま心まめなるときは、谷の清水を汲みてみずから炊ぐ」という清水がこれだ。
「とくとく」とはまたまんまの命名と思いつつ、ならば山荘はすぐ近くと思うのだがそれらしい姿は見当たらぬ。昔の人は、こまめに離れた場所まで水汲みに出かけたのだということを思い知らされる。
さらにしばし登ったところでやっと山荘のこじんまりとした門が見えてきた。けっこう、鬱蒼とした山林を登ってきたのだが、ここはやや高台で眺望も開けている。
方角からして琵琶湖は見えないが、瀬田川の両岸に広がる町並みが見渡せる。到着となると、これまでの苦行が快感に変わるのはエベレスト登山と同じだなどと勝手に思ってもみるが、多分違うのだろう。
庵は、パンフによれば比較的近年に再建されたものだというが、それを感じさせないほどひなびた風情をもっている。庵の横手の竹矢来も、ちょこなんとした門構えもなかなか似つかわしい。
床の間には、江戸を旅立ち、曽良とともに陸奥へ向かう芭蕉の旅姿の掛け軸、添えられた讃は「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」で始まる「奥の細道」の序文の一節。脇に活けられたヤブツバキがまた一興。
なにも人里離れたこんな不便で上り下りも大変なところに住まなくってもとも思うが、そこはワビサビの世界、芭蕉、四〇代なかばの足腰にとってもなんでもないことだったのだろう。
まず頼む椎の木もあり夏木立
というのは、ここで読まれた句らしい。
ここで感心するのは、この庵は大津市の管轄になっているものの、その管理運営は麓の自治会(といっても六軒だけだが)によるものだということだ。案内してくれた男性もそのうちの一人で、六日に一回の当番日にここへ詰めているのだという。
一口に管理運営といっても、麓の駐車場から何百段かの階段、そして庵そのもののケアーは大変だと思う。ほとんど雑草を見ることもなく、きれいに整備されている。
こうした地元の人が地域に残された文化財を管理維持するといういうのは、昨秋訪れた湖東地方の古刹でもみたところであり、歴史的文化財をいまに生き延びさせる草の根の運動のようなものである。
帰りは、当番の男性がこっそり教えてくれた階段を使わず、足腰へのダメージが少ない山道を降りた。
だったら始めっから、という思いもあるが、やはり庵への道は、当時、芭蕉が通った経路をたどるというのが正解であったろう。
ここでの芭蕉体験は、次の義仲寺へと続くことになる。