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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

カダフィ、カストロ、そして映画弁士の私

2011-02-26 04:51:20 | 想い出を掘り起こす
 リビアのカダフィ大佐が民衆のデモや軍の寝返りにより危機的状況にあるようです。
 最近のリビアの情勢には疎いので何かをいおうとは思いませんが、このリビアのカダフィがアラブの希望の星といわれた時期をどれだけの人が覚えていることでしょう。
 1969年、それまで王政であったリビアを無血クーデターで倒し、以後は汎アラブ主義、イスラム社会主義を掲げてアメリカに支援されたイスラエルの拡張主義にもっとも激しく対立し、抵抗してきたのが彼でした。

 それが祟って1986年には米軍機による自宅のピンポイント爆撃(アメリカによるテロ爆撃といわれた)を受け、末娘を失っています。
 建国の父でありアラブの星がいまや民衆によって排除されようとしているのです。
 繰り返しますが、リビアの国内事情に疎いのでその是非をとやかくいう立場にはありません。
 ただし、エジプト革命とか中東革命とか簡単に「革命」という言葉が氾濫していますが、それが革命であるか単なる政変であるかはさらに観察し続ける必要があるように思います。

                    

 ここまでは前降りで、私はいまキューバのフィデロ・カストロのことを思い出しています。彼もまた、1959年に旧体制を倒して以来、依然として権力の座に居続けます。その期間たるや既に半世紀を上回っています。
 それはどうしてでしょうか。いろいろな要因が思い浮かぶのですが、それはともかく、私の若年の頃の想い出を記しておこうと思うのです。

 1960年ぐらいのことです。
 戦後一貫して日本共産党の支配下にあった全学連(全国学生自治会連合)をその党支配から離脱させた当時(1958年全学連11回大会 私はそこにいた)の委員長、香山健一氏(1933年 - 1997年 のち学習院大学教授 清水幾太郎氏などと交流)の講演と、併せて、キューバ革命のに関する記録映画の自主映画会(日本初公開)が催されることとなりました。
 会場は、いまや松坂屋の東で久屋大通になってしまっている旧名古屋タイムス社の本社講堂でした。
 
 私も主催者の一員ではありましたがその映画を楽しみにして観に行きました。
 当時日本では、キューバ革命が何であるかの実態がほとんど報道されていなかったのです。
 会場は若い人を中心に立錐の余地がないほどの入りでした。

                    

 ところがです。
 フィルムは来ましたがそれが無声映画で解説の台本付であることが分かったのは上映時間の一時間ほど前でした。
 急遽、以前、演劇部の不良部員だった私に「お前が台本を読め」と白羽の矢が立ちました。リハーサルもなにもないまったくのぶっつけ本番です。
 舞台監督に相当する人が画面を見ながらキューを出します。
 私は必至でマイクの前で台本を読みます。

 結果として、あの会場で唯一その映画を見なかったのは私でした。
 しかし、終わったあとで、盛大な拍手(私にではなく映画に対してです)が起こったとき、人々が映画に感動した一助たり得たことに密かな満足を覚えました。

 若者たちが変革を求めてとてもアクティヴで、熱気ムンムンの時代でした。
 たとえそれが幾多の誤謬を含むものであったとしても、状況への関心を若者たちが持ち続けた時代として記憶されるべきでしょう。
 
 ところで、あのモノクロで弁士つきの映画の内容って何だったのでしょう。
 必至で台本と格闘していた私にはさっぱり記憶がないのです。
 そのとき観たひとがいたら教えて下さい・・・ったって無理だろうなぁ。


    写真はそれぞれWikipediaより拝借しました。
コメント (6)
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