前回は芝居の話を書きましたが、今回はその後に観た映画についてです。
「ナンネル・モーツアルト 哀しみの旅路」(監督・脚本ルネ・フェレ)がそれです。
ナンネルというのは通称で、本名はマリア・アンナ・モーツアルトで、かのアマディウス・モーツアルトのお姉さんです。
映画そのものは、演出がやや散漫かなという気もしますが、天才の誉れ高い幼い弟とその姉を引き連れ、モーツアルト一家がヨーロッパ中を演奏旅行して歩く様子が良く描かれています。
しかし、ここでは映画についての評論をしようとするのではありません。
ナンネルに象徴される女性の音楽家について考えてみたいのです。
ナンネルに演奏家としての才能があり、当時のヨーロッパ各地では彼女と弟の二人の演奏がうけたことは間違いないところで、それは映画の中でも描かれていますが、加えて、作曲家としての才能もあったことが描かれています。さらには、幼少児の弟が書いたという作曲ノートの曲が、実はナンネルのものであったことすら示唆されています。
その当否はともかく、この映画で注目すべき点は彼女の淡い恋心はともかく、父・レオポルト・モーツアルトにより彼女の音楽活動がクラヴィーア(鍵盤楽器)の演奏に限定され、作曲はおろかヴァイオリンに触ることすら許されなかったところにあります。
歴史上の事実としても、彼女が音楽に携わった記録は弟と一緒の演奏旅行以後はほとんど途絶えていて、その後、親の決めた相手と結婚し、弟に比べ七〇歳代まで生き延びたのものの、晩年には失明を味わうなどしています。
ようするに、当時の社会通念として、「女性は音楽の、とりわけ創造的なそれに携わるべきではない」という不文律があったのです。
同じように姉弟で才能を分かち合った音楽家にメンデルスゾーンがいます。
今日、私たちが知っているメンデルスゾーンは、弟のフェリックスの方です。姉のファニーはナンネル同様、ピアニストとして、作曲家として才能豊かな人でした。
しかしその彼女も、父の「お前は弟の天才が理解できるのだからそれで満足しなさい」という言葉で公の活動を絶たれてしまいした。
ただし、ナンネルと違う点は、結婚した相手の画家ヴィルヘルム・ヘンゼルが彼女の才能に理解を示し、その作品を後世に残したこと、また、弟と交わされたおびただしい往復書簡を通じ、弟の作品に少なからず影響を与えたことです。
19世紀において、例外的にヨーロッパを股にかけてピアニストとして、また作曲家として活躍したのがロベルト・シューマンの相方、クララ・シューマンです。彼女の場合、父が当時のドイツ音楽界の権威であったこと、ロベルト・シューマン(最初の音楽評論家と言われる)がそれに対し寛容であったこと、ロベルトの死後、ブラームスが公私にわたって支援を惜しまなかったことなどが幸いしたものと思われます。
それにしても、八人の子をなし、かつ音楽活動を継続したことは特筆すべきでしょう。
なお、ここでトリビアですが、貨幣がユーロに統一される前のドイツの100マルク札にはこのクララの肖像が使われていました。
しかし、残念ながらこれで女性の音楽家の地位が向上したわけではありません。
19世紀末から20世紀初めにかけて作曲家とし、指揮者として活躍したグスタフ・マーラーは、作曲の才能を持っていた妻アルマに、その音楽活動を禁じ、彼への献身だけを求めました。
「自分の人生を生きていない」と感じたアルマは、長女を病気で亡くしたのを境に、奔放な生活に転じます。酒と男性遍歴は当時のヨーロッパに於いてその名を轟かせたとあり、マーラーはアルマの才能を無視したばかりに、途轍も無いしっぺ返しを受けることになるのです。
しかし、歴史を紐解いてみると、こうした女性の音楽家にとっての隘路はあったものの、それをすり抜けて活躍したたくさんの人たちがいたことも事実です。また近年、女性の作曲者もかなり活躍しています。
ショスタコーヴィチに激励されたというソフィア・グバイドゥーリナは私より少しお姉さんですが、なかなかいい曲を書いています。
ナンネルもまた、弟をめぐるエピソードとしての一人物ではなく、彼女自身、その後の女性たちの活躍のひとつの契機になった、独立した音楽家であったことを信じたいと思います。
「ナンネル・モーツアルト 哀しみの旅路」(監督・脚本ルネ・フェレ)がそれです。
ナンネルというのは通称で、本名はマリア・アンナ・モーツアルトで、かのアマディウス・モーツアルトのお姉さんです。
映画そのものは、演出がやや散漫かなという気もしますが、天才の誉れ高い幼い弟とその姉を引き連れ、モーツアルト一家がヨーロッパ中を演奏旅行して歩く様子が良く描かれています。
しかし、ここでは映画についての評論をしようとするのではありません。
ナンネルに象徴される女性の音楽家について考えてみたいのです。
ナンネルに演奏家としての才能があり、当時のヨーロッパ各地では彼女と弟の二人の演奏がうけたことは間違いないところで、それは映画の中でも描かれていますが、加えて、作曲家としての才能もあったことが描かれています。さらには、幼少児の弟が書いたという作曲ノートの曲が、実はナンネルのものであったことすら示唆されています。
その当否はともかく、この映画で注目すべき点は彼女の淡い恋心はともかく、父・レオポルト・モーツアルトにより彼女の音楽活動がクラヴィーア(鍵盤楽器)の演奏に限定され、作曲はおろかヴァイオリンに触ることすら許されなかったところにあります。
歴史上の事実としても、彼女が音楽に携わった記録は弟と一緒の演奏旅行以後はほとんど途絶えていて、その後、親の決めた相手と結婚し、弟に比べ七〇歳代まで生き延びたのものの、晩年には失明を味わうなどしています。
ようするに、当時の社会通念として、「女性は音楽の、とりわけ創造的なそれに携わるべきではない」という不文律があったのです。
同じように姉弟で才能を分かち合った音楽家にメンデルスゾーンがいます。
今日、私たちが知っているメンデルスゾーンは、弟のフェリックスの方です。姉のファニーはナンネル同様、ピアニストとして、作曲家として才能豊かな人でした。
しかしその彼女も、父の「お前は弟の天才が理解できるのだからそれで満足しなさい」という言葉で公の活動を絶たれてしまいした。
ただし、ナンネルと違う点は、結婚した相手の画家ヴィルヘルム・ヘンゼルが彼女の才能に理解を示し、その作品を後世に残したこと、また、弟と交わされたおびただしい往復書簡を通じ、弟の作品に少なからず影響を与えたことです。
19世紀において、例外的にヨーロッパを股にかけてピアニストとして、また作曲家として活躍したのがロベルト・シューマンの相方、クララ・シューマンです。彼女の場合、父が当時のドイツ音楽界の権威であったこと、ロベルト・シューマン(最初の音楽評論家と言われる)がそれに対し寛容であったこと、ロベルトの死後、ブラームスが公私にわたって支援を惜しまなかったことなどが幸いしたものと思われます。
それにしても、八人の子をなし、かつ音楽活動を継続したことは特筆すべきでしょう。
なお、ここでトリビアですが、貨幣がユーロに統一される前のドイツの100マルク札にはこのクララの肖像が使われていました。
しかし、残念ながらこれで女性の音楽家の地位が向上したわけではありません。
19世紀末から20世紀初めにかけて作曲家とし、指揮者として活躍したグスタフ・マーラーは、作曲の才能を持っていた妻アルマに、その音楽活動を禁じ、彼への献身だけを求めました。
「自分の人生を生きていない」と感じたアルマは、長女を病気で亡くしたのを境に、奔放な生活に転じます。酒と男性遍歴は当時のヨーロッパに於いてその名を轟かせたとあり、マーラーはアルマの才能を無視したばかりに、途轍も無いしっぺ返しを受けることになるのです。
しかし、歴史を紐解いてみると、こうした女性の音楽家にとっての隘路はあったものの、それをすり抜けて活躍したたくさんの人たちがいたことも事実です。また近年、女性の作曲者もかなり活躍しています。
ショスタコーヴィチに激励されたというソフィア・グバイドゥーリナは私より少しお姉さんですが、なかなかいい曲を書いています。
ナンネルもまた、弟をめぐるエピソードとしての一人物ではなく、彼女自身、その後の女性たちの活躍のひとつの契機になった、独立した音楽家であったことを信じたいと思います。