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消される主体の痕跡 多和田葉子の連作、『アメリカ』を読む

2013-02-09 14:27:29 | 書評
 多和田葉子さんの、『アメリカ 非道の大陸』(2006年 青土社)を読んだ。
 全部で一三章からなるこの小説は、それぞれの章に有機的関連があるようなないような構成で、あえて共通点を挙げれば、舞台がアメリカであること、そしてほとんどの章にアメリカに住まう女性が出てくること、そして狂言回しのようにそれらを訪れる女性が出てくることである。その意味では「短篇集」ではなく「連作」といったほうがいいだろう。

            

 アメリカに住まう人たちは、その職業や階層もまちまちで、その差異が各短編を多彩に彩っているのだが、問題は、各章に共通する狂言回しともいうべき女性の存在である。
 この女性が訪問者として訪れ、明らかにその視線から物語が紡ぎだされているようなのだが、しかし、彼女はイコール語り手ではない。つまり、この女性は決して「私は」と語り出すことをしない。
 それどころか、この女性そのものが対象であるかのように、もう一人の語り手、もう一つの視点が用意され(年齢性別不詳)、各章の訪問者として実質的な語り手であるはずの女性は、「あなた」という二人称で登場するのだ。
 例えばそれはこんな具合に語られる。
 
 「あなたの座っていたテーブルは結局ほかには人が来ず、椅子が四つ空いていた。最初のステージが終わるとジョイが舞台から降りて近づいてきて、隣に座ってもいいかと聞く。あなたがうなずくと、ジョイに呼ばれて他の三人のミュージシャンたちも来てすわった。・・・・・・・・ジョイがあなたを見て、『私達の種族はアルコールは飲まないのよ』と言った。あなたは『種族』という言葉を聞いて・・・・・・・・」(第六章「きつねの森」より)


 いわゆる主人公=語り手ということならば、上の「あなた」に「私」を代入すれば済むのだが、多和田さんはあえて「私」の上位にさらに「メタレベル」にいるかのような語り手を置くことによって、本来なら「私」である場所を「あなた」として相対化してしまう。

 はじめはこの「あなた」に違和感を持つのだが、これが繰り返されるうちにそれが自然なことのように思えてくる。
 この狙いはおそらく、「主体」を「あなた」と呼ぶことによって相対化すること、あるいは、「主体」の上に神のような「視座」をもうひとつ置くことによって「主体を客体化すること」、または「主体の他者性をあぶり出すこと」にあるのではないだろうか。

 そうしたことを考えながら読んでいると、もうひとつ、とんでもないことに気づくこととなる。当初、「あなたと名指された者」も、そして「あなたと名指す者」も、ある意味では作家である多和田さん、ないしはその分身として同一視しながら読み進むのだが、先ほど見たように「あなたと名指す者」が年齢性別不詳であったのと同様に、「あなたと名指された者」も女性だということ以外、年齢も民族や国籍も、職業や階層も全く不詳なのである。
 しかし、その女性は決して「無」ではない。いたるところに感情の吐露があり、繊細で瑞々しい感性の持ち主であるように思えるのだが、その実態は全くわからない仕掛けになっている。

 内容についてだが、各章ともに展開が多彩で、時として意外性もあって面白い。ただし、他の章が雑誌「ユリイカ」に連載されたものであるのに対し、第一三章には単行本化する際に書き下ろされたもののようだが、なくても良かったのではという感がある。他の章に対して幾分異質すぎるからである。
 やはり、「一三章」にしたかったのだろうか。

 「非道の大陸」というサブタイトルから、アメリカを非難や批判する内容を連想されるとしたらそれは大きな間違いである。「非道」なのは定められた道をゆくことがない登場人物たちの生き様であり、それを訪問して歩く「あなたと名指された者」のさすらいであり、それを追体験する私たちなのだ。
 ただし、それを明確にする意味では、大都会であったり、砂漠であったりする「アメリカ」こそがふさわしい舞台というべきであろう。
 ヨーロッパや日本ではこうはいかない。

コメント
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