*写真は私の散歩道から
カント先生の『人間学』を未だにボチボチ読んでいる。
この本、「実用的見地における」という形容が付いているだけに、ほかのお固いもの(もちろんそれらを下敷きにはしているのだが)と比べて面白い。
ようするに、人間とは何であり、どのように生きたらいいのかというカント先生のウンチクが述べられているのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/bf/ce6654eefc50230ba51e775c100d4792.jpg)
なるほどと感心する部分も多いのだが、性愛も含めたというか、それを当然含む人間の情愛などについていうならば、ひょっとして私よりも幼いのではないかと思う箇所が多いのだ(私がそれにたけているわけではない)。
性行為や女性の下着の話、性的欲望の話などが、何でここでと思う箇所で出てくるところからして、それらに関心がないわけではないようで、カント先生自身の衝動を思わせる叙述もあるのだが、それらから至る結論ははどうも浅薄な感じがするのだ。
たとえば、「情念」について論じた箇所にこんな記述がある。
「盲目の恋以外の通常の異性愛の情念は何々欲とは呼ばれない。その理由は、異性愛の欲望は(お楽しみによって)満足させられると、少なくとも当の同じ相手に向けては即座に消失するからであり、それゆえ熱烈な盲目の恋を(相手が頑なに拒絶している間は)情念の例として挙げることはできても、肉体的な異性愛を情念と呼ぶことはできないからであるが、それは、肉体的な異性愛というのは客観(相手)に執着するという原理になっていないからである」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/90/576944a809475cd72eef788cf093256b.jpg)
平たくいうと、ここではカント先生かなりひどいことをサラッといっている。
ようするに異性愛(同性愛でも同じであろう。以下、異性愛にこだわらず読んでほしい)は、その「お楽しみによって」思いを遂げるまでのもので、それが達成された後にはその思いは「即座に消失する」といって憚らないのである。したがって、それらの情念は、「相手が頑なに拒絶している間は」有効であっても、相手との合意が形成された段階では消え失せるというのだ。
これではまるで、色事師かスケコマシの論理のようである。
ただし、カント先生、そのへんは周到で、「肉体的な異性愛というのは客観(相手)に執着するという原理になっていないからである」といっている。
ようするに、肉体的な異性愛というのは相手(客観)は誰でもよく、欲望が達成されさえすればもはや執着はないといっているのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/0a/b2b8bb9d3a2c28a4f9ecdf1cc5151b61.jpg)
これはちょっとドライすぎるのではないかと思う。こうした刹那的な「肉体的な」異性愛とは別の、たとえば「精神的な」異性愛が存在するのかどうか、まだ読んでいない部分で探してみようと思うがこれ以降の目次からしてもたぶん出てこないと思う。
ここまで読んで気になるのは、カント先生の実際の女性関係はどうであったのかということである。彼が生涯独身であったことは以前から知っていた。しかし、その長い生涯(1724年~1804年まで。当時としては長命)を通じて、その周辺に女性の存在は全く嗅ぎとることすらできないのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/67/c8e204fee6f4235506a566fded654bd2.jpg)
時代は少し後になるが、ベートーヴェンもまた生涯独身であった。しかし、彼の回りには幾多の女性の臭いがする。「エリーゼのために」のエリーぜとは誰か、「不滅の恋人」に宛てたラブレターの相手は誰かなどがいまもって取り沙汰されている。しかも彼は「これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった」ともいわれている。
翻ってわがカント先生にはそうした風評はとんとない。
こうしたことからいうと、カント先生は今風に言えば「草食系」で、ひょっとしたら「恋愛恐怖症」ないしは「性愛恐怖症」であった可能性もある。
だとすると、上に述べたカント先生の記述は、少なくとも自分の体験に依拠したものではなく、伝聞か彼自身の主観的な思い込みによるものであるといえる。少なくとも、カント先生が、女性と付き合い、一度思いを遂げたら「ハイ、さようなら」という人ではなかったということである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b9/0edfeaaf380d1d0fa3d64d779db3b3d4.jpg)
とはいえ、カント先生の考察がまるっきり的外れでもない。確かにそういう人たちが世の中にはいるだろう。今日のように、恋愛や性愛がとても軽くなり、ゲーム化している世相にはかえってそれが該当するかもしれない。
しかし逆に、そうした時代であればこそ、ふとしたはずみで「お楽しみによって」結ばれ、それが情念を生み出し、継続した関係に発展する場合も無数にあることだろう。
これらについては、もっと具体的な例をもって語らねばならないのだろうが、いろいろ差し障りがあるむき(え?私?私は関係ありませんよ)もあるからここらでやめておこう。
結論として、カント先生の性愛につてのお説教は、少なからず値引きをして読むべきだろうということだ。
人間とは何であり、どう生きるべきかに関しては、やがて76年を生きることになる私にとっても、やはり「初心者」なのだ。
カント先生の『人間学』を未だにボチボチ読んでいる。
この本、「実用的見地における」という形容が付いているだけに、ほかのお固いもの(もちろんそれらを下敷きにはしているのだが)と比べて面白い。
ようするに、人間とは何であり、どのように生きたらいいのかというカント先生のウンチクが述べられているのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/bf/ce6654eefc50230ba51e775c100d4792.jpg)
なるほどと感心する部分も多いのだが、性愛も含めたというか、それを当然含む人間の情愛などについていうならば、ひょっとして私よりも幼いのではないかと思う箇所が多いのだ(私がそれにたけているわけではない)。
性行為や女性の下着の話、性的欲望の話などが、何でここでと思う箇所で出てくるところからして、それらに関心がないわけではないようで、カント先生自身の衝動を思わせる叙述もあるのだが、それらから至る結論ははどうも浅薄な感じがするのだ。
たとえば、「情念」について論じた箇所にこんな記述がある。
「盲目の恋以外の通常の異性愛の情念は何々欲とは呼ばれない。その理由は、異性愛の欲望は(お楽しみによって)満足させられると、少なくとも当の同じ相手に向けては即座に消失するからであり、それゆえ熱烈な盲目の恋を(相手が頑なに拒絶している間は)情念の例として挙げることはできても、肉体的な異性愛を情念と呼ぶことはできないからであるが、それは、肉体的な異性愛というのは客観(相手)に執着するという原理になっていないからである」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/90/576944a809475cd72eef788cf093256b.jpg)
平たくいうと、ここではカント先生かなりひどいことをサラッといっている。
ようするに異性愛(同性愛でも同じであろう。以下、異性愛にこだわらず読んでほしい)は、その「お楽しみによって」思いを遂げるまでのもので、それが達成された後にはその思いは「即座に消失する」といって憚らないのである。したがって、それらの情念は、「相手が頑なに拒絶している間は」有効であっても、相手との合意が形成された段階では消え失せるというのだ。
これではまるで、色事師かスケコマシの論理のようである。
ただし、カント先生、そのへんは周到で、「肉体的な異性愛というのは客観(相手)に執着するという原理になっていないからである」といっている。
ようするに、肉体的な異性愛というのは相手(客観)は誰でもよく、欲望が達成されさえすればもはや執着はないといっているのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/0a/b2b8bb9d3a2c28a4f9ecdf1cc5151b61.jpg)
これはちょっとドライすぎるのではないかと思う。こうした刹那的な「肉体的な」異性愛とは別の、たとえば「精神的な」異性愛が存在するのかどうか、まだ読んでいない部分で探してみようと思うがこれ以降の目次からしてもたぶん出てこないと思う。
ここまで読んで気になるのは、カント先生の実際の女性関係はどうであったのかということである。彼が生涯独身であったことは以前から知っていた。しかし、その長い生涯(1724年~1804年まで。当時としては長命)を通じて、その周辺に女性の存在は全く嗅ぎとることすらできないのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/67/c8e204fee6f4235506a566fded654bd2.jpg)
時代は少し後になるが、ベートーヴェンもまた生涯独身であった。しかし、彼の回りには幾多の女性の臭いがする。「エリーゼのために」のエリーぜとは誰か、「不滅の恋人」に宛てたラブレターの相手は誰かなどがいまもって取り沙汰されている。しかも彼は「これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった」ともいわれている。
翻ってわがカント先生にはそうした風評はとんとない。
こうしたことからいうと、カント先生は今風に言えば「草食系」で、ひょっとしたら「恋愛恐怖症」ないしは「性愛恐怖症」であった可能性もある。
だとすると、上に述べたカント先生の記述は、少なくとも自分の体験に依拠したものではなく、伝聞か彼自身の主観的な思い込みによるものであるといえる。少なくとも、カント先生が、女性と付き合い、一度思いを遂げたら「ハイ、さようなら」という人ではなかったということである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/b9/0edfeaaf380d1d0fa3d64d779db3b3d4.jpg)
とはいえ、カント先生の考察がまるっきり的外れでもない。確かにそういう人たちが世の中にはいるだろう。今日のように、恋愛や性愛がとても軽くなり、ゲーム化している世相にはかえってそれが該当するかもしれない。
しかし逆に、そうした時代であればこそ、ふとしたはずみで「お楽しみによって」結ばれ、それが情念を生み出し、継続した関係に発展する場合も無数にあることだろう。
これらについては、もっと具体的な例をもって語らねばならないのだろうが、いろいろ差し障りがあるむき(え?私?私は関係ありませんよ)もあるからここらでやめておこう。
結論として、カント先生の性愛につてのお説教は、少なからず値引きをして読むべきだろうということだ。
人間とは何であり、どう生きるべきかに関しては、やがて76年を生きることになる私にとっても、やはり「初心者」なのだ。