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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

怒りのトラウマ 私の「現代芸術」逍遥

2015-05-06 02:29:02 | アート
 「そうだ、明日は図書館へ行くついでに、岐阜県立美術館へゆこう。【てくてく現代美術世界一周】と題して、『タグチヒロシ・アートコレクション』を展示している。図書館へ行くたびに、隣の美術館を横目に見て気にはしていたのだが、時間の制約などがあってのびのびになっていた。どんな内容なのかはさっぱり分からない。
 しかし、それが楽しい。この田口弘氏、実業家であり現代美術作品のコレクターで、岐阜県郡上市出身らしい。1937年生まれというから私よりも1つ年上だ。その同世代人がどんな美術品に興味を持って集めたのだろうか。百聞は一見にしかずだ。とにかく、観てこよう。」

          
   村上隆「黄色い麦わら帽子の女の子」 近年、フィギアのほうが話題になっているが、
   それはなかった


 と書いたのは、5月1日のことだった。で、その通り翌2日に行ってきた。報告が今頃になったのは、何やかやあって写真の整理などができなかったからだ。
 
 上に述べたように、田口というひと、私より一歳年上の岐阜県人だが、この世界に疎い私は、こんなひとがいることも知らなかった。「現代芸術」のコレクションとあってどんなものをと思って行ったのだが、割とオーソドックスなもので、それはそれとして楽しかった。
 
           
              川島秀明 「結末」

 日本の作家のものとその他のものが別れて展示されていたが、私のような素人にはそのほうがわかりやすい。外国の作家ときたらアンディ・ウォーフォールかマルセル・デュシャンぐらいしか知らないのだから。
 その点、日本の作家の有名どころは眼につきやすいし、何かとスキャンダラスに報じられたりもして露出度が高い。


    会田誠「灰色の山」山と積み上げられたのはサラリーマンの屍だという
    この人も近年は色っぽい少女で話題を呼んでいるがそれはなかった

 写真に掲載したものは日本の作家のものである。
 その全てが会場で私が撮ったものである。
 この会場では、一部をのぞいてほとんどが撮影可であった。
 解説をするほどの知識は持ち合わせていないのでそれは抜きにする。

          
                大槻 透 「四季」

 ところでこの撮影の可否について、一度憤慨に耐えぬ事態に遭遇したことがあるのでそれを書きたい。
 私とてもういらないくらい年を重ねてしまった老人、人並みの常識はわきまえているつもりなので、美術展などの撮影禁止のところで写真を撮ったりはしない。

           
   草間彌生 この人は赤に白いドット(水玉)がよく知られているが、この作品は
   白い点が細かく、遠目には赤ベタに見える


 ただ一度だけ、それで注意されたことがある。
 何年か前の「あいちトリエンナーレ」の折、それを観に行ったわけではないが、たまたま愛知県の芸術文化センターに所用があったので出かけた。地下鉄を降りて、そのまま進むとこのセンターのB2に至り、そこは行き交う人達が交差するロビー状態になっている。
 そこに、キリンのフィギアーがあったのでこれは面白いとガラケーを向けたら、若い係員と思しきひとが飛んできて、「これは撮影禁止です」という。

              
             加藤 泉 フィギアと油彩(うしろ) 

 ならば致し方無いとは思ったが、あまり納得がゆかなかったので、「でもここは展示場ではなく不特定多数のひとが行き交う場所でしょう。だとしたら野外彫刻と一緒でしょう」といってみた。
 若い人は一瞬口ごもったが、「でも、駄目なんです」という。
 こんなところで押し問答をしてもと思ってふと視線を上げると、この場所は吹き抜けになっていて、上方(つまりB1)の手すりから複数の人たちが撮影しているではないか。
 「あそこからはよくて、どうしてベストアングルのここからは駄目なんですか」と再び私。
 

    奈良美智 アクリル画とセラミックス ひと目でこの人の作品と分かる 

 「いや、あそこまでは手が回りませんから」と係員。
 こういうのを私のボキャでは官僚主義という。「官僚主義と現代芸術の関係は?」と問いたくなったのだが、これ以上粘るとクレイマーとして警備員を呼ばれそうだったので、「撮影されたくなかったら、こんな不特定多数が通りかかる場所に展示しないよう作者にいっておいて下さい」と捨て台詞を残してその場を後にした。

          
          加藤美佳(タレントとは別人) 「マスカット」

 私の怒りはさらにそのあとに増幅されることとなった。
 その建物の10階に上がった。その階は、メインの展示室のほか大小の展示室、それにレストランと、B2に比べここを訪れるひとははるかに限定される。その10階のロビーとみなされる場所に、先ほどと同じ作家の作品とひと目で分かるゾウのフィギアが展示されていたのだ。
 また写真を撮るとうるさいんだろうなと横目に見て通りすぎようとしてよくみたら、回りにいる人たちが誰に制止されることもなく写真を撮っているではないか。

          
        リチャード・モス(アイルランド) デジタルCプリント

 よほどB2へ取って返し、先ほどの係員の襟首をとっ捕まえて連れてきて、「これは何なんだ」といってやりたい衝動がこみ上げてきたが、どうせあの係員も、その是非もわからずマニュアル通りに行動しているのだろうと考えて自制した。物事の良否を自分で考えることができないひととの対話は成立そのものがおぼつかない。
 悪いのは、こんな公の場所に展示しながら、撮影禁止などというマニュアルを作ったやつだろう。

           
       ヴィック・ムニーズ (ブラジル)「マリリン・モンロー」
 
 「現代芸術」ときくとその時の情景がトラウマのようによみがえるのだが、今回の展示会場内で撮影可が圧倒的に多かったことで、それが少しは晴れたようだ。

 掲載した写真についてはキャプションを見ていただきたいが、キャプションで説明しきれない作品もあって、実は私はその作品の前に一番長く佇んだのだが、もう十分長くなった。
 稿を改めて書いてみたい。

なお、上記美術展は5月17日まで。



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ツツジの終焉と大切な5月3日の思い出のために

2015-05-04 01:42:56 | 歴史を考える
 わが家のツツジについてはここ2、3回触れてきた。
 しかし、今日が最後だ。
 満開を過ぎたからだ。
 ツツジは散らない。
 椿同様、花ごと落ちる。
 庭の苔への落椿などはまだ風情があるが、ツツジは駄目だ。
 落ちた途端に茶色く変色し始める。
 落ちない前に変色するものもある。
 だから散り際の美は期待できない。

           

 樹齢数十年、改めて大木に育ったと思う。
 ついでだからもう一本の赤い方も紹介しておこう。
 これは玄関先、バス通りに面している。
 樹齢は白と同じなのだが、それほど大きく感じられないのはそのロケーションにある。ようするに、道路に面しているせいで、毎年刈り込まねばならないのだ。
 自由にのびのび、四方八方に枝を広げている白に比べてかわいそうな気もする。

          

 それから、白に比べて赤は開花がやや遅い。
 その代わり、遅れた分だけ長持ちする。
 白のなかに最近赤がまじり、それが一枝を占めるに至ったことはすでに書いた。この赤い枝も、周りの白に対して開花に同様な時差がある。
 不思議なことだ。

          

 アングルが違う白の写真は、私が二階の部屋から見下ろすものだ。
 見下ろすといっても、ほんの鼻の先まで伸びてきた。

          

 大切な話というのは5月3日は憲法記念日だったということだ。
 1947年5月3日、現行の日本国憲法が施行された。
 私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄されたばかりだった)。
 街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちが駅頭や街にあふれていた。

 もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
 だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。

 私たち小学生にも、憲法についての話があった。
 そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
 そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。

 そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。

          


 強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
 もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、場所によっては戦火の悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。

 だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。くどいようだが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。

 この憲法のもと、日本人の暮らしは良くなった。その一番の功績は、以後、戦火に怯えることのない70年を過ごせたということであり、近隣諸国へ武力を背景にした圧力をかけたりしなかったことだ。

          

 今その憲法がいろいろな面で危ない。
 その一つは、平和条項が名実ともに反故にされようとしていることだ。
 それを反故にしようとする人たちはいう。
 「あの頃とは情勢が違うんだよ」と。
 「ちょっと待った」だ。

 歴史を紐解くまでもないことだが、憲法制定当時の世界情勢、とりわけ東アジアの情勢はいまよりもはるかに不安定で流動的で危険だったのだ。
 世界的には核を背景にした東西冷戦がすでに始まっていたし、中国では、国共内戦のまっただ中であった。さらには朝鮮半島では、まだ戦端は切られてはいなかったものの、一触即発で、事実、3年後には南北戦争が悲惨な状況を呈することとなる。

 だから、今日と違ってのんびり出来た時代だからあれでよかったのだというのはまったくの嘘である。耳を澄ませば聞こえるほどのすぐ間近で戦火が交えられていたにもかかわらず、日本国民は武力でもってそれに備えることを放棄したのだ。

          

 今日、たしかに領土問題などをめぐる小競り合いはある。しかし、相互に、武力をもって決着をつけるような問題ではないという共通認識はもっている。これを理由に相互に武力強化を図っているにしてもだ。
 むしろ問題は、身近な脅威を理由にした、「世界どこでも参戦可能」状態への拡大移行の方である。専守防衛を放棄した、「必要ならばどこまでも」である。そしてその「必要ならば」はその折の為政者の恣意的な判断、その折の欲望のありかに委ねられる。

 私たちは初心に帰るべきだと思う。それはこの憲法が、300万同胞の、そして2,000万の近隣諸国の屍を前にして選び取られた崇高な道だったということだ。この事実は、「靖国に眠る英霊」というカルト宗教的な言い分とはまったく違う次元ではるかに重い。

 国民学校から小学校に変わった年の5月、私たちに説明されたこの憲法とともに私は生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ないのだ。

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