【7日間ブックカバーチャレンジ第七夜】
ハンナ・アーレントアーレントの『精神の生活』(上・下巻 岩波書店)。
彼女は、人間の生活を大きくわけて、「活動的生活」(具体的に現実と関わり合いながら言動でもっておのれが何であるかを指し示してゆく活動)と「精神の生活」(現実とは一歩引いたところからの精神的営み)に分けているのですが、その生前、出版されたものはほとんど前者に関するもので、したがって彼女のジャンル分けは、政治学者とか政治哲学者とされるものが大半です。
しかし彼女は、二〇世紀哲学書のビッグネーム、ハイデガーやヤスパースのもとで哲学を学んでいて、その活動的生活を論じたものについても、それらをバックボーンとしていたことは明らかです。
しかもそれは、ハイデガーやヤスパースのそれとはまた違った境地だったといえます。それを晩年に至って、哲学プロパーの問題として論じようとしたのがこの書です。
この書は、「思考」「意志」「判断」の三部からなる予定でしたが、その二部までの粗稿を残したままで彼女は他界してしまいました。それを、友人のメアリー・マッカーシーが編纂したのがこの書です。
■畏友須藤勝彦氏が残した書!
私の手元にある書についてはとくに思い入れがあります。というのは、この書は四年前に亡くなった畏友須藤勝彦氏の蔵書だったものです。彼の遺言では、「蔵書はすべてゴミとして処分せよ」とのことだったのですが、弔問に訪れた私は、せめてもの形見分けにと奥方に懇願して貰い受けてきたのがこの二冊なのです。
そのページを繰ると、彼による傍線やマーカーでのチェックが随所に見られ、余白への書き入れも見られます。しかも、それらの色彩や筆跡が複数で、彼が何度もこれを熟読したことが伺えます。
またそれらの内容から、彼がいかに深くこれを読み込んでいたかを知ることも出来ます。
何年か前、既読である私も、彼の導くまま、再三再四、読み込んでゆきたいと思っています。
【番外編】カール・マル<wbr />クス『経済学・哲学草稿』。
これを外すのは心苦しかった<wbr />ので、番外として書き残す。
マルクスの書はいろいろ読んで、それぞれ学ぶところは<wbr />多かったが、初期のものでいちばん鮮烈だったのはこれだ<wbr />。
マルクス若干26歳、青年ヘーゲル派といわれていた頃<wbr />のこの小論は、まだ、ヘーゲルの掌中にあり、これを卒業<wbr />して彼はマルクスになったのだと言われたりもしたが、た<wbr />しかに彼は、「即自」や「対自」など、ヘーゲルの概念を<wbr />用いてその論理を進め、いわゆる疎外論の範疇にあるとい<wbr />える。
しかし彼は、それらヘーゲルの観念論的概念装置を換骨<wbr />奪胎し、資本主義体制の中での人間の労働とは何であるか<wbr />、それらは自己実現というより、その反対物を築き上げる<wbr />のではないかという指摘と警鐘は今なおリアリティを失っ<wbr />てはいない。
疎外論はもう古いといわれて久しいし、それに一理ある<wbr />ことは知っている。しかし、マルクス的な意味での疎外論<wbr />を知らずしてその後を語ることも出来ないのではないかと<wbr />思う。
マルクスの書はいろいろ読んで、それぞれ学ぶところは<wbr />多かったが、初期のものでいちばん鮮烈だったのはこれだ<wbr />。
マルクス若干26歳、青年ヘーゲル派といわれていた頃<wbr />のこの小論は、まだ、ヘーゲルの掌中にあり、これを卒業<wbr />して彼はマルクスになったのだと言われたりもしたが、た<wbr />しかに彼は、「即自」や「対自」など、ヘーゲルの概念を<wbr />用いてその論理を進め、いわゆる疎外論の範疇にあるとい<wbr />える。
しかし彼は、それらヘーゲルの観念論的概念装置を換骨<wbr />奪胎し、資本主義体制の中での人間の労働とは何であるか<wbr />、それらは自己実現というより、その反対物を築き上げる<wbr />のではないかという指摘と警鐘は今なおリアリティを失っ<wbr />てはいない。
疎外論はもう古いといわれて久しいし、それに一理ある<wbr />ことは知っている。しかし、マルクス的な意味での疎外論<wbr />を知らずしてその後を語ることも出来ないのではないかと<wbr />思う。