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尽きぬ興味の映像・・・・6時間の超大作映画『水俣曼荼羅』を観て

2022-03-04 01:22:37 | 映画評論
 監督は『ゆきゆきて、進軍』、『全身小説家』などで知られる原一男、彼の6時間にわたる渾身の超大作である。休憩時間を含めると7時間!
 こんな超大作を80歳過ぎの私が鑑賞に耐えうるのだろうか。しかも題材からして重くシリアスで、しかも暗くなりがちではないのか。私自身、当初はそんな懸念があった。

 しかし、それは杞憂であった。作品は三部に別れているが、第一部(「病象論を糺す」)は基本的で重要な病理論的な説明があってやや硬いかもしれないが、熊本大の医師たちが患者たちに平易に説明する形で展開され、しかもそれは具体的な診察を経由して説明されるので、私のような自然科学ボケでも鮮明に理解することができた。
 この第一部の熊本大医学部の浴野成正氏、二宮正氏の臨床的な治療活動の成果とその経緯は、なぜ水俣病が発覚以来六〇年以上になるのに、いまなお行政の対応が遅々としたままに推移しているのかを解きほぐす鍵となる。

              

 ここには「水俣病」の基本的な理解の相違がある。
 従来の医学は、それを「末梢神経の障害」として捉える。従って、末梢神経に目に見える傷害がない場合には患者ではないということで全て切り捨てられてきた。
 しかし、浴野、二宮の両医師は、目に見える傷害はなくとも、患者の様々な感覚において重大な欠陥があり、例えば、針で刺されても痛感がない、従って、普通の怪我が惨事に至るなど、視覚、聴覚、味覚などなどに重大な欠陥があるという事実、そしてそれは単なる「末梢神経の傷害」ではなく、中枢神経が損傷を被っていることによるものであることを明らかにしてゆく。
 従ってその中枢部分の損傷は、ある日、傷害となって出現する可能性をじゅうぶん秘めているのだ。

 こんな風に書くと、なにか病理学の講義のようだが、これらの事実は辛気臭い理論展開としてではなく、患者との往診や対話の中で、映像として明らかにされてゆくので生身の現実として理解することができる。

          
 
 さらに、第二部、第三部になると映画は下手な劇映画よりも遥かに面白い展開を見せるようになる。映像の主役が、いまなお後遺症を抱えながら、現実と向き合い、生活をしている患者たちであり、その具体的な生活が数々のエピソードとともに、ある時はユーモラスに描かれてゆくからである。

 第二部の冒頭からしばしば出てくる生駒秀夫さんは、少年時代に自分の手足が勝手に 跳ね動き、まるで何かに操られて踊り狂っているかのような症状を見せたのだが、その後の治療によって今はそれほどでもないが、まだ細かな痙攣は続き言葉にもその震えが残る。しかしながら、その言動はいたって活発で明るさを失わない。
 人を介しての見合い結婚だが、自分のような患者のもとに女性が来てくれる事自体がありがたく、新婚旅行の初夜は一睡もできず、嬉しさがこみ上げるあまり新婦に指一本も触れられず、ただただうれしく有りがたがっていたというエピソードも、またそれを語る彼の語り口も実に面白くほほえましい。
 彼らは患者として、しかめっ面をして生きているのではないのだ。それだけに、住民としての通常生活への支障を認定することなく、頬かむりを続ける行政の冷ややかさが逆照射される。

                

 第三部の坂本しのぶさんも面白い。胎児性患者の彼女は外見そのものがいわゆる健常者のそれとは異なる。肢体も表情も言語表現も不自由そのものである。しかし、彼女は「恋多き女性」である。映画の中でも、それぞれ実らなかった幾つかの恋が語られる。なかにはその恋の対象であった男性とともにその折の思いを語る。彼女の恋は率直そのもので、その失恋も表面的には陰鬱なものではない。
 彼女は同時に作詞家である。彼女の詩に曲を付けた シンガーソングライターとともに舞台に上がり、その傍らでその歌に耳を傾け、頷いたり調子を合わせたりしながらのパフォーマンスも披露する。

               

 ここに例示したのはほんの一部の人に過ぎないが、 様々な人々がその病を背負いながらも懸命に生きている姿はとても自然でどこか懐かしいものすらある。
 しかしながら彼らのその生活の背後に、患者であるということ、しかもそれらが十分に補償されていないということ、中には患者であるとすら認定されていないという厳しい事実がある。

 ここで第一部に帰っていうならば、 水俣病を単なる末梢神経の障害としか見ない保守的な見解は、その患者の中枢が侵されており、それによってこそ様々な末梢での感覚障害が起こっているという事実を認めようとしない。そのことによって感覚障害を訴えて 患者としての認定を迫る人々を水俣病ではない単なる感覚的な病であるとしてその認定から遠ざけてきた。
 冒頭に述べた2人の医師の検証によって、それらが中枢での障害によるものであることがほとんどの裁判で立証されたにもかかわらず、今なお誤った認定基準による仕分けがなされ続け、救済さるべき人たちが放置されているのだ。
 患者からの認定を審査する熊本県によれば2010年代の実態は毎年何百人かの申請があるうちで、患者と認定されるものは多くて年、数名であり、全くゼロの年も何年か続く。
 かくして水俣病はそれが公になって60年以上を経過してもなおかつ救済されないままの人たちを積み残しているという現実がある。

          
 
 水俣の歴史は実はさらにさかのぼることができる。それはおおよそ80年前、つまり戦前においても猫たちの異常な狂乱ぶりと死亡がすでに報告されているのだ。よく知られているように港町には猫たちがたくさんいる。この猫たちは漁師が水場をした魚のうち雑魚に類するもの、あるいは魚をさばくうちに出てきた内臓などが放棄されるものをその餌として生きている。後に分かったようにそれら内臓等は、有機水銀が最も凝縮されて蓄積される場所である。したがってそれらを食した猫は激しく痙攣をし、狂おしく踊りまわり、次々に死に至ったのだった。

 やがてそれらが人間たちの目に見える症状として現れたのはおよそ60年前のである。それ以降医師たちの賢明な原因解明、患者たちの訴えなどなどからチッソが戦前から垂れ流してきた有機水銀がその原因だと判明し、ある程度の救済措置も取られてはきた。
 しかしそれは今なお不十分でその救済の網目から漏れた人たち、あるいは今後も起こりうる発病等への補償は全く不十分であることをこの映画は示している。

          
                石牟礼道子さん 第三部に登場する

 それは何故だろうか。行政の中にある国民に対するいわば「性悪説」のような態度に起因するのではないかと思われる。どういうことかと言うと、行政は、犠牲者を救護するというより、これら患者ないしはその候補者たちは、隙があれば国の補償を過剰にかすめ取ろうとしているという人間への不信感のようなものもち続けているということである。
 この性悪説に基づく国民の管理と言う役人根性はこの水俣において十全に発揮されているが、問題はそれが、患者を救済するという本来の趣旨を完全に阻害しているということである。
 同様にこうした思想は、例えば当然の権利である生活保護の制度を、あたかも欠陥ある者たちへの施しのような形で考える一部政治家、ないしは官僚や役所の所業にも見られるものだ。

          

 これをさらに大きな枠で考えるならば、本来国家や役人というものは国民に対してどのような責任を負いどのような行為をなすべきか、あるいはなしてはならないかを定める憲法を、逆に国家による国民への管理体制ととらえ、義務や責任を押し付けるものに変更しようとする連中の基本的な改憲案の思想と相重なるものである。

 ちょっと枠を広げすぎたかもしれないが水俣というこの今となっては誰の目にも明らかな公害、日本4大公害といわれる中でもずば抜けて質の悪い(というのはそのもたらした障害の内容と同時にその障害を隠蔽し、その障害者の認定、障害者への援助を遅延させてきたという意味での)公害、それが 今なお現地では現実の問題として存在していることをこの映画は如実に示している。
 
 第一部で見たように末梢神経の障害と見るか中枢神経での障害と見るかによる違いは顕著である。中枢神経による障害とみられる被害者の約80%を、末梢神経の障害として見る保守的な立場は不適格者とみなし、患者として認めようとしない。そればかりか金目あてのの悪意ある便乗者とみる見方にもつながっている。

          
 
 最後に、ある集会において中枢神経からくる感覚障害について泣きながら訴える患者の声を紹介しておこう。
 「うまいものを食ってもその味がさっぱりわからん。 オ○ンコをしても感じるか感じないかすらわからない。ただこすっただけ」 その他いろいろな例を挙げ彼は、このように要するに感覚がない、わからないということは、自分たちが「文化から見放されている」ということだと訴える。

 この映画は こうした 重い問題を背景に持ちながらそれを観念的に訴えるのではなく、そのもとで生きている人々の悲喜こもごもの様相を見せることによって、ありきたりのアジテーションであることを免れている。すでに述べたように、ときにそれらの人々はユーモラスですらある。
 6時間と言うのは膨大な時間ではあるが、しかしこの映画は、その負担をほとんど感じさせない。まるで良質のドラマを見ているかのように、その展開の中にひきこまれている自分がいた。 説明がましいナレーションもなく、必要な事項が時折字幕で示されるのみで、ほとんどの事柄は映像そのものによって語られる。まさにこれぞ映画の力であると言うことを実感させられる6時間であった。

 上映は名古屋シネマテークで。残念ながら3月4日で終了するが、それ以外の地区ではこれからの上映もあるはずである。お勧めの6時間である。



 
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