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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ワルシャワへ着く 駅周辺の衝撃  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-12 17:47:18 | 旅行

 今回の旅の主要目的は旧友にして畏友、K氏を訪れることだったから、あとはせっかくヨーロッパまで来たのだからというおまけのような旅だ。しかし、そのおまけにワルシャを選んだというのには積極的な理由がないわけではない。

 そのひとつはドイツの侵攻に始まりソ連の反撃に終わるあの第二次世界大戦で、徹底的に破壊されながら、それから見事復旧を果たし、今や世界遺産にまでなった旧市街を見ておきたかったこと、世界的音楽家として知られるショパンと出会うこと、ヨーロッパでもっとも密度が高いといわれたユダヤ人が暮らしたこの国、そしてこの都市でのその変遷の歴史を探ること、そして今一つは、アンジェ・ワイダ監督の映画「灰とダイアモンド」や「地下水道」の痕跡、特に後者の背景、1944年のワルシャワ蜂起の痕跡を探ることなどであった。

          
         
         
         
 ワルシャワ中央駅に着く。ここはホームのすべてが地下で、頭端式(ほうき状)ではなく複数のホームを列車が行き交う。
 時間は夕刻に近い。今日は駅の近辺のみの探索に留める。まずは薄ら鉄ちゃんの儀式としてホームの列車を撮る。そして地上へ出たところで駅舎並びに近辺の建物を撮る。

      
      
 それらの写真で、まさにこの駅の近辺で時代がクロスしているのを実感する。
 まず駅舎である。中央駅を示す掲示の下はマクドナルドが広く広がっているようだ。

 周辺を見てみよう。駅の東側にまるっきり時代を超越したかのようにそびえるのが、かつてソ連圏内あったこの場を象徴するかのようなスターリン様式(?)の建造物、文化科学宮殿である。私はかつて、同様のものをサンクトペテルブルクの郊外で見ている。
 それに今ひとつ、まさに今世紀のいまを示すかのように、駅の南側にひときわ高くそびえるのが韓国の大企業サムスンの高層ビルである。

         
        



 まさにこれぞ、現今の世界!という感じではないか。なんとなく落ち着きのなかにまとまったドイツ、ライプチヒから来た身には、この落差はいくぶん衝撃的だった。

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別れの感激・そのときもらったもの 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-11 17:38:52 | 旅行

 ライプチヒからベルリン中央駅経由でワルシャワ行き列車でポーランドへ移動する。七時間の列車の旅。
 ライプチヒ駅までK氏が見送りに来てくれる。ここまでのドイツの旅は、ほとんどがおんぶにだっこのK氏の庇護によるものだった。ここからがほんとうの一人旅だ。

 しかし、K氏の私へのケアーはこれで終わったのではなかった。彼は私にひとつの包みを渡していったのだ。「昼食時は列車の中、そのための弁当を作ってきた」と。何という心配り、これからは一人という私の心細さを和らげてくれるにじゅうぶんだった。

 やがて発車のベルが鳴ろうかというときだった。もうひとつのハプニングが起こった。昨夕の食事をともにしたZさんが駆けつけてくれて、花を一輪と、旅の幸運を招くというタグをバッグにつけてくれたことである。
 昨夕の宴は、一期一会のこととして終わったと思っていた私には、まさに意表を突く続編だった。

 この歳になるまで、何度もの別れを経験している。そのうちには、駅頭でのものもむろんある。しかしこれは、忘れ難いものとなった。K氏の気配りとそれに文字通り花を添えてくれたZさんの好意。
 列車に乗り込み、見送る人との間に無為な時間が流れ、それがやや間抜けに感じられてしまうことがある。しかし、今回は違った。この人たちとできるだけこの空間にともにいたい、そう思った。

 しかし、列車は発車した。ライプチヒには二日しかいなかったのだが狭いリング内で馴染みの箇所がけっこうできたこと、K氏宅へ何度も訪れその生活ぶりを目の当たりにしたこと、K氏に関連する人たちに逢うことができ楽しい宴がもてたことなどなど、その中身は豊かであった。それだけに離れがたい思いもあった。

 K氏、並びにZさんに頂いたモノたちのその後を記しておこう。

          

              ワルシャワ行き列車
 
 まず、用意してもらった弁当だが、これは車中でのトラブルのため食べることができなかった。というのは、ベルリン中央駅でワルシャワ行きに乗り換えたのだが、指定された車両に乗り込んだところ通路が大混乱していて進むことができない。どうやら通路の横は六人掛けのコンパートメントになっているようなのだが、それらコンパートメントのどの扉も開かず、乗り込んだ客が中へ入れないまま通路がどん詰まりになっているようなのだ。

 怒号に近い声が上がり混乱がいや増しに増すなか、乗務員らしい男が二人ほど現れ大声で事情を説明し始めたようなのだ。言葉はわからないが、どうやらこの車両は使わないので、それぞれを別のところへ案内するから切符を見せろといっているようなのだ。
 
 私の番になった。切符(といっても旅行社発行のA4の印刷物だが)を見せるとうなずき、ついて来いという。私の乗るはずだった車両の2,3輌辺り後ろのあるコンパートメントを開けてここに座れという。見ると、知り合いらしい中年の女性が二人いて、犬も一匹いる。いきなり入ってきた東洋人の老人を観て、怪訝そうな、というより拒否に近い顔つきをしている。車掌がこの間の成り行きを説明したのに納得したのか、私の荷物の収納を手伝ってくれた。
 彼女たちは窓際でひっきりなしにしゃべくりまくっているし、私は通路側でその間には犬が陣取っている。

          

              ポーランドへ入った

 やがて、途中の駅で男性客が一人また一人と乗り込んできて、コンパートメントは満席になった。こんな状態のなかで、K氏が用意してくれた弁当を広げるわけには行かない。ましてや隣りは犬だ。諦めた。

 やがてワルシャワに着く。駅から徒歩一〇分ほどの所なるホテルにチェックイン。三泊の予定だがその間、ベッドメイキングには入らないと申し渡される。へ~、と思ったがそのほうが気楽でいい。枕銭につて気にすることはないし、その間、誰も入ってこないのもいい。
 寝小便をしたら困るが、ダブルベッドだからその際は反対側で寝ればいいだけだ。

 土地勘を掴むために、ホテルの周辺を散策する。ホテルのすぐ近くにコンビニ風の店を見つけた。一通りの商品(食品)を見て回る。ただし、今日の目当ては種類だ。300ml ほどの缶ビールとフルボトルの1/4 サイズの赤ワインを買う。
 K氏が用意してくれた弁当を今宵のディナーにするのだ。

      

 写真を見てほしい。別途、皿があったら盛り付けて立派なプレート料理になるところだ。
 手前には卵焼きと大粒なさくらんぼ、その右はピクルス風の漬物だ。その奥はロースハム。おにぎりは二個あって、一個はしそ味、そしてもう一個はふりかけ味風だ。左側には、おにぎり用の海苔を別途湿気を防いでつけてくれていたが、この海苔自体が良いものなので、おにぎりに巻くことなく一品でいただく。デザート用のバナナも一本付いている。

          


 これらを、ホテルの窓から西日が射し始めた風景を見ながらいただく。K氏の細やかな気配りがこもったこの旅最高のディナーだ。
 混み合ったコンパートメントで犬の隣りで食べなくてほんとうによかった。

           


 Zさんからもらった花だが、ガーベラだろうか。ホテルのベッドメイキングや掃除が三日間来ないのを幸い、洗面所に飾ってワルシャワにいる間毎日眺めていた。黄色系のガーベラの花言葉は「究極美」「究極の愛」「親しみやすい」「優しさ」だとか。

      
 それから、やはりZさんがバッグに取り付けてくれた旅の幸せを祈るタグ、実は旅の最後の最後にアクシデントがあったのだが、それをも圧して、こうして無事帰宅できたのはこのタグのおかげだろう。いまそのタグは、私の手元にある。

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ライプチヒ・楽しかった最後の晩餐  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-10 16:23:21 | 旅行

 いよいよ明朝、K氏の本拠地で私のこの旅の最大の目的地であったライプチヒを離れることとなった。
 最後の晩餐(パリ五輪の開会式でのそのパロディと目されるものが問題となり、恐喝騒ぎになっているそうだが、私のそれはそんな物騒なものではない)であるが、それについては予め私の方からK氏に頼んでおいたことがあった。それは、ライプチヒへ 来た以上、K氏に会うのは当然として、それ以外の彼の人脈のある人々とも逢いたいということだった。

      

 彼の方では誰にしようかと困っていたようだが、たまたま彼がここぞと思い予約をしていたレストランの近くに、彼がライプチヒ大学勤務時代の同僚で、 今なお勤務を続けている東アジア研究所中国学科の講師Zさん(女性)が住んでいること、しかもその娘さんHさんが、念願の芸術大学へ入学が実現し、その祝いをしたいとのことで、それではということで、私のお別れの宴とその娘さんの祝宴とを共にしようということになった。

 前回述べた聖トーマス教会でのオルガンコンサートの後、K氏と私はその予約の店へと徒歩で行くことにした ある。トオマス教会から西へ進み、メンデルスゾーンの像の前を横切りリングを囲む通りを渡ると 広々とした緑地帯に出るこの一帯は直径1キロほどの広さを誇る公園で、その名はクララ・ツェトキン公園と言う。

          


 このクララ・ツェトキンという名は、私の年齢以上のいわゆる左翼にとってはよく知られた二〇世紀前半のドイツの革命家でありなおかつフェミニスト運動の女性活動家のもので、ローザ・ルクセンブルグの同志としても知られている。なお彼女は、ナチスが政権を取るに至り、当時のソ連へと亡命するが、その地で客死している。
 一方、ローザ・ルクセンブルグは1919年のスパルタクス団蜂起の際に、 カール・リープクネヒトなどとともに、右翼のフライコール(義勇軍)によって虐殺されている。なおクララ・ツェトキン公園から程遠くない場所に、このカール・リープクネヒトの名を冠した通り存在していることも、この街が東独の街であったことを示しているのかも知れない。

 クララ公園の広大で深い緑の中をK氏とさまざまな話をしながら行く。こういう感じの 大木が林立し緑地が広がりなおかつ水をたたえた池がこれほどの規模で広がる公園は日本にはない。東京のちまちまとした公園の緑さえ伐採しようとする話が出ているというが愚かな話というほかはない。

      

 小一時間、ゆっくり話しながら歩いたろうか。公園の中を流れる運河のほとりに出た。目指すレストランはこの運河に面してあるというので、運河に沿って南下する。
 K氏の馴染のこのレストランのオーナーはイタリアはシシリー島の出身という陽気な人で、二〇年ほど前、私もシシリー島へ行ったことがあるというと、まるで100年の知己であるかのように抱きしめてくれた。

 店内にも多くの席があるが、運河に張り出した川床のようなところに席を取る。身動きを誤ると落っこちそうな運河では、大勢の客を乗せた観光船、小型のボート、カヌー、競技用の練習船舶などがひっきりなしに行き交う。午後5時は過ぎているのだが、9時頃まで明るいここでは、まだまだ日本の午後3時といった様子だ。

      

 待つことしばし。Z&Hさん母娘が現れる。この旅に出て以来、はじめて面と向かって出会う東洋系の人たちだ。妙な親しみと安心感はあるのは私もまた東アジアの人間だからだろう。とはいえ、やはりカタコトの英語(私の方だが)以外、言葉は通じないのでいくぶんもどかしい。その辺をK氏に依存しながら話を進める。

      

 Zさんは親しみやすさとともに現役の大学講師だけあってどこか頼もしい感ががある。その娘さん、Hさんは自分の志望をちゃんと見据えた確固とした意志と、何よりもこれからそれを推進して行こうとする若さがみなぎっている。

 話題は多岐にわたった。自分の語学力の乏しさを嘆きながら、K氏の補助を受けて話は進む。Hさんは美大で何をしようとしているのかの私の問いに、日本のアニメ作家の絵に興味があるとのことだった。しかし、その辺のところは私にはわからない。そこで、私の知る限りでの日本の現代美術の絵画をスマホの検索から引っ張り出しながら話を進める。

      

                私とZさんの乾杯

 奈良美智、会田誠、村上隆などの作品を観る。これには彼女も興味を示してくれた。もちろん、とっくに知っていて私に合わせてくれただけかも知れないが、それでも話の過程は面白かった。
 何らかの拍子に、ハイデガーの話が出て、その際、Zさんが「あなたはハイデガーのすべてを肯定しますか」と問いかけてきた。西洋形而上学を否定しようとしたハイデガーが、1933年のフルブライト学長就任にあたってナチズムをもその選択肢として考えてしまったことは遺憾に思っている旨を話したら、彼女の表情は和らいだ。

      

                   K氏と私

 その他、ハンナ・アーレントの話なども出て、日本の親しい友人たちともあまりできないような会話が重ねれられた。中をとりもって通訳していくれたK氏は大変だったろう。
 正直にいって、話がはずんで料理の詳細はおぼえていないが、シシリー出身だけに魚介も含めたそれらはどれも美味しかった。K氏がこの店を贔屓にするのもわかるような気がする。日本で馴染んだ味覚をとんでもなく超えてしまうことのない程よい味付けが施されているのだ。

      

                  K氏とHさん

 傍らの運河を往来する船の数が少なくなり、辺りにやっと闇が忍び寄る頃、楽しかった宴は終わった。
 最後は、この近く住む彼女たちと別れてK氏とトラムで帰ったが、ホテルへ帰ってからも、あれも話せばよかった、これも語るべきだったという思いが次々と湧き出てライプチヒの最後の夜はさまざまな惜別の情とともにふけゆくのであった。

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バッハ記念博物館とオルガン演奏会  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-07 16:57:27 | 旅行

 ライプチヒ最終日、午後三時からのバッハゆかりの聖トーマス教会でのオルガンコンサートでK氏と出会うことを約してそれまでは自由行動。
 ざっと何があるかを確認したのみで通り過ぎてしまったところなどを今一度詳しく見直したりしたあと、とりわけ聖トオマス教会前の「バッハ記念博物館」はこの街へ来た以上必須の場所だと考え入場する。

          

      
 やはり日本人もよく来ると見えて、日本語のヘッドホンも用意されていたのでそれを身に付ける。確かにバッハ関連の様々な資料が保管されている。あの複雑な家系図等はう~んと眺めているものの特に覚えようとはしない。その他バッハの時代の楽器や演奏の組み合わせ、楽譜などなどが展示されている。

          
         
 それら残されたもののうちで これはと思ったのは当時のオルガンの基体である。聖トーマス教会のオルガンそのものはもはや当時のものではない。当時のものは解体されて新しいものが設置されている。しかしこのバッハ記念博物館に残されている オルガンの演奏基体は当時のもので、まさにバッハが日常的にこれに触れていた代物であるという。

          
 その他にも様々な資料を見た。いささか欲求不満だったのは、肝心のバッハの音楽の変化や変遷やについての当時の様子を伝える資料があまりなかったことである。まあ、音楽という抽象性の高いものを歴史的に伝えるという事はなかなか大変なことだからないものねだりだろうとは思う。

 なんやかんやしている間に、K氏との約束の時間がやってくる。教会の周りはやはりこのコンサート目当てのかなりの人数が集まっていてやがて入場が始まる。満席とまではいかないがかなりの入場数だ。館内に入っている人たちはどんな人たちなのだろう。観光客、あるいは音楽愛好家、はたまた信者の方々。比較的高齢者が多いがまあ、これはクラシックコンサートの通例か。

 何やらドイツ語の説明があって演奏が始まる。手元にあるプログラムを見る限りでは、演奏曲目はバロックの宗教曲を中心に数曲でそのうちバッハものは2曲である。
 演奏が進む。こうした教会等での演奏は コンサートホールとは違い音の乱反射などがあり、それがまさに教会と言う場で教会音楽が演奏されているというアウラを演出するのだが、ここの教会は結構複雑な作りをしているにもかかわらず、演奏自体はまるでコンサートホールでのそれのようにクリアに聞こえる。
      
 演奏会を聞いていていまひとつ不審に思ったのは、明らかに1つの曲目が終わっても拍手が起きないことである。 これは客層のせいなんだろうか、あるいはこうした宗教音楽は、拍手をしないもんなんだろうか。わかりかねて私も拍手しない。
  やがて最後に演奏されたのは、明らかに今までのバロックとは違う近代風のオルガンのための曲で、その演奏法も自由闊達でとても面白い。今までの清廉とも思えた宗教曲とは明らかな 相違がある。 これはおそらく演奏者が最後に行ったアンコール曲であろうと思う。曲は盛り上がリを見せて終了した。
 さすがにこの曲には拍手が起こり、私もまたその演奏を称える拍手をした。演奏者は立ち上がりそれらに向かって深々と頭を下げている。これだけの聴衆の盛り上がりがあったのだからもう1曲 位アンコールがあってもと思ったがそれはなく、意外とあっさり終了した。

 演奏会はともかく、バッハがオルガンを弾いていた教会で、オルガンを聴くというのはやはりある種の感慨が残るものである。

               
 なお、後で調べたのだが、この日の演奏者はセバスチャン・キュヒラー・ブレッシング( Sebastian Küchler Blessing)という1987年生まれのオルガニストで、各地で活躍している他、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽大学で教鞭をとり、各種オルガンコンクールの審査員なども努めてるという。
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薄ら鉄ちゃんの記録「ライプチヒ駅とトラムたち」 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-06 11:46:31 | 旅行
      
      
      
      
          
          

 ライプチヒ駅はベルリン中央駅の立体式とは違い、頭端式(私にいわせるとほうき状)駅である。ベルリン中央駅とよく似た鉄鋼ドームの下、十数の線路が広がっている。インターシティや近郊線など路線も車両もいろいろだ。
 どれがどれだかわからないまま、駅の構内でそれらを撮してきた。
     
      
 なお、駅のエントランスは伝統的な趣に溢れている。

 あとはトラムである。色とりどりのそれらが走っている。ただし、それらに乗る機会は一度しかなかった。なぜなら、市の中央部のリング内にはそれらは走っておらず、また、それにに乗ることなく伝統的な建造物などを見ることができるからだ。
 とはいえ、駅前のトラムのホームでのその発着は途切れることはない。リングの周り、そしてその近郊の街々とを結ぶそれらは途切れることなく頻繁に行き交っている。
       
       
      
      
      
      
      
         

 最後のおまけに付けたのは、たまたま出くわした緊急車両二台である。派手なサイレンとともにあっという間に駆け抜けていった。
 
      
 


 
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音楽の街・ライプチヒ 八五歳のヨーロッパ一人旅

2024-08-05 15:51:09 | 旅行

 前回、バッハの存在がライプチヒの大きな歴史遺産となってることを書いたが、それが実現するために今ひとつエポックが必要であったことを示唆しておいた。そう、バッハを中心としてこのライプチヒを音楽の街たらしめたもう一人の音楽家の存在こそが重要なのである。

           

 それはユダヤ人の音楽家、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)の存在である。彼はライプチヒの出身ではないが、 38年と言うその短い生涯の後半12年間をライプツィヒで過ごし多くの業績を上げている。
 
 彼がやってきたのはライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたからであるが、まず最初に彼がした事は、当時ヨーロッパでもあまり知られていなかったこの管弦楽団を、現在我々が知るようにヨーロッパでも指折りの楽団の1つに育成したことである。

          

          ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地

 さらに今1つは、これまで述べてきた聖トーマス教会に あったバッハの業績の蓄積を見直し、それの再演に努めたことである。 それによってバッハはこれまでバロック音楽の作曲家の群れに埋もれていたにもかかわらず、そこから抜け出し、その第一人者として認められることとなった。
 しかしこれにはすでに素地があって、 14歳の折、彼がその祖母からクリスマスプレゼントとしてもらったのは、バッハのマタイ受難曲の手筆の楽譜であった。彼はそれを研究し尽くし、1829年にはベルリンでバッハ死後初めてこのマタイ受難曲を指揮し演奏している。

 そんなメンデルスゾーンだったから、聖トオマス協会に埋もれていたバッハの諸資料の多くは彼の手によって、また彼の楽団ゲヴァントハウスによって再生され、新たに命を吹き込まれるのであった。

      

             ライプチヒ市民劇場の威容

 メンデルスゾーンの果たした役割はバッハにとどまることなく、当時、初めて自分たちの音楽を対象化して論じるといういわゆる音楽評論の創始者シューマンとの連携のもと、やはり埋もれていたシューベルトの交響曲の数々を世に出したり、 またシューマンのとの論議のもと、新進作曲家に光を与えるといった役割を果たしてもいる。

 また彼の作曲家としての活躍にも触れておく必要があるだろう。彼の作品はえてして軽く見られがちであるが、私にいわせればその紡ぎ出すメロディーはまさに 語彙の豊かな詩を思わせるものがある。彼の最も有名なヴァイオリン協奏曲 ホ短調(作品64)、 いわゆるメンコンとして親しまれている曲も、このライプツィヒで作曲されゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されている。

     

     フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学

 これらのメンデルスゾーンの業績を顕彰する立像は、聖トーマス教会の西正面近くのリング道路の中央緑地帯に建てられている。 その立像の前を横切ってリングの外側へ出ると、そこにはいわゆる立派なライプチヒ市民劇場があり、そのすぐ近くに「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学」が威厳をもった佇まいで建っている。
 1843年、後進の指導のために彼により創立された「ライプチヒ音楽院」がその前身で、ドイツで最初の重要な音楽大学である。なお、1901年には「花」や「荒城の月」の作曲家、滝廉太郎がここへ留学している。
            

      

            威厳に満ちた同大学の正面

 ライプチヒは音楽の街でもある。その原動力はバッハであっただろうが、それを世に出し、さらに自らの音楽で華を添え、さらには後進のための道を整えたのがメンデルスゾーンであった。

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歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-05 00:45:30 | 旅行

 ライプチヒは住みやすそうな街である。直径数百メートル位かと思われるいわゆるリング内にほとんどのものが揃っている。K氏が勤務していたライプチヒ大学もそうである。彼が退職後もここにその居を定めたのはよくわかるような気がする。

 ところでこのリング内には著名な2つの寺院がある。
 その一つは聖トーマス教会である。ルター派のこの教会は音楽史上の巨人、かのバッハの活躍の根城として知られている。1685年生まれのバッハは、それまであちこちで音楽修行をしその腕を上げてきたが、いずれの地でも短期間の滞在で終始してきた。

          

 1723年このトオマス教会の音楽監督(カントル)に就任にも一悶着あったようだが、なんとか決定を見るや、1750年にその生涯を終えるまでここの地に定住し、この教会のみかこの街のカントールにも就任した。
 音楽監督に就任した後のバッハは毎週1曲、要するに年間約50曲のカンタータを作曲演奏すると言う精力的な活動をこの教会のために行うなど、精力的に活躍した。また「マタイ受難曲」などの名曲もこの教会での初演であった。

          

 しかしその当時は、テレマンやヘンデルなど他のバロック音楽家に比べるとその知名度はあまり高くなかったとも言われている。その彼の知名度を一躍上げるためには、もう一つの エポックがあるのだが、それについてはまた述べよう。
 いずれにしてもこの聖トオマス教会でのバッハの活動は、音楽史上における不可欠な大きな出来事であったことは事実である。この教会とバッハの名は、分離しがたいものとして語り継がれていくことであろう。

      
 もうひとつの教会の聖ニコラウス教会は創建こそは聖トーマスより教会よりも古いのだが、今日にまで継続するある歴史的エピソードの場としても知られている。

       
 東独時代、 市民の集会等は実質的に禁止されるなか、教会における集まりは許容されていた。1989年秋、この教会でわずかな人数による月曜ミサで、東独民主化の話が交わされた。やがてそれらは市民の間に広がりを見せ、翌週には何百人、続いて何千人とついには教会にはとても入り切れない万を数える群衆が東独の民主化を求めて市の広場全体をを埋め尽くすに至った。

           
 この運動はライプツィヒにとどまらず、東独各地に点火拡散、しベルリンにもまた飛び火することとなった。そしてそれが あの11月9日のベルリンの壁崩壊に至ったと言われる。
 これらの事実から、ベルリンの壁崩壊の数週間前にさかのぼってこの問題を提起し、拡散したのは、まさにこの聖ニコラウス教会の月曜ミサにに集まったライプチヒの市民たちであるという誇りを、今なおこの街の人たちはもっている。

           
 規模としてはさほどの大都市ではないにもかかわらず、どことなく誇り高く悠然としたライプチヒ街の雰囲気はそんなところに起因するのかも知れない。

 これがライプツィヒの数百メートルも離れない2つの教会の物語である。

【付】ライプチヒで私を出迎え、素麺をご馳走してくれたK氏につき、その趣味の山水画が素人裸足であることを述べたが、その最新作が届いたので以下に紹介する。

              

 どうだろう。参照しているのが中国のそれということもあって、日本の山水画のある種の鋭角さがなく、鷹揚な感じがするのだが・・・・。それともそれはK氏自身の性格に起因するのだろうか。

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ライプチヒでK氏と素麺をすする 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-03 16:36:19 | 旅行

 ベルリン最後の朝、午前中にライプチヒへ向かうとあって特に行くべきところもない。荷物を整理したあと、チェックアウトをし、連日行き来をした近郊線の駅へ向かう。たった3日間だったが、見慣れた風景が心に残る引かれるものがある。
 ベルリン中央駅からほぼ1時間20分、途中の車窓風景を楽しみにしていたが、線路の両側は防風林のような木立が立ち並び、時折その切れ目から牧場や畑が垣間見える程度。やや欲求不満。

     

 ライプチヒ駅はベルリン中央駅と違ってほうき状(正式には頭端式というらしい)のそれで、出口もわかりやすい。あらかじめの指示通りに進むとK氏が出迎えてくれた。
 駅を出ると頻繁に行き交うトラムの駅と路線があり、それを横切ると緩衝地帯のような小公園があり、それを過ぎて一本目の路地の角がもう彼の住まいであり、しかもエレベーターで登った最上階。名古屋駅前でいったら、ミッドランドスクエアのすぐ裏といった位置関係になる。しかし、そこは名古屋のように繁華な街ではなく、人通りも少なく落ち着いた場所である。

         

         
               彼の部屋から周囲を・・・・


 ベルリン以来の話が弾む。そこで、彼が最近趣味としている山水画の作品を見せてもらう。その趣味は知っていたし、これまでメールに添付された2,3の作品はみている。また、その作品に軍用機などをコラージュし、反原発ポスターに採用されたものもみている。
 しかし、こうしてまとめて観て、それが趣味の域を越えつつある予感もする。この分野を鑑賞する素養のない私は、これまで、彼のそれを日本の山水画家のものと比較対照したりしてきたが、どうもそれらとも異なる気がしてきた。それは、断崖風の山、急流を思わせる渓谷などのやや尖った表現が彼の作品には観られないことであった。今回、改めて、彼が参照していいるのが日本のそれら山水画ではなく、中国の作品であることを聞き、その山水そのもののなだらかな鷹揚さが理解できるように思った。

                   

        ライプチヒでの素麺  プレミア付きの味ですぞ!

 昼食をご馳走になった。彼の手造りの素麺である。昼麺族の私にはむろん日本を離れて以来の麺であるが、それがライプチヒであるということがなんとも面白い。この時刻、この街で素麺をすすっているのは私たちだけだろうと思うと何やら誇らしくすらある。
 日本の食材を結構こまめに揃えているのでその入手先を尋ねると、この建物の一階が東アジアの食材の専門店で、その店主とも親しいという。

 昼食後、彼が手配してくれたそこから5分ほど離れたホテルにチェックインし、身軽になったうえで彼の案内で市内を回る。とても覚えきれないほど、次々と記念すべき建造物に出くわす。ここはベルリンと違い、かつての城郭内というかリング内がとても狭く(直径数百m)、その中にいろいろなものがひしめいているのだ。以下順にそれらのものを列挙しておく。その詳細がまた出てくるものもあるだろう。

          

          

       ホテルのすぐ前、聖ニコラウス教会 また取り上げるだろう

      

                 オペラハウス

          

      
      
     ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地といわゆるホワイエ

          
         
         
      

  バッハの根城だった聖トーマス教会 最後はバッハの墓標 また触れる

      

                現市役所

      

      旧市役所 前の広場のマーケッは夕方を迎え店じまい 残念

          

   K氏が勤務していたライプチヒ大学も訪れた その研究室からの螺旋階段

      

  旧城壁の残滓か 今はレストラン 派手なのはシェクスピア劇のポスター     

          

            町並みはとても落ち着いた感じ

          

      市内の所々にあるパサージュ 両側に割と高級感のある店が並ぶ

      

           なんだかよくわからない塑像

      

          市の美術館 トイレだけ借りた ゴメン

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すべての国境には壁がある  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-02 11:56:18 | 旅行

 20世紀ベルリンのもうひとつの特筆すべき点は、この都市が第二次世界大戦後の冷戦下で、東西に分断されていたということである。
 とりわけ、61年に東西を隔てる壁が築かれ、89年にそれが撤去されるまで、この都市はまさに東西冷戦をもっとも具体的な形で表現する箇所であった。

      

 と同時に、89年のその壁の崩壊は、東西冷戦の歴史そのものを終焉させる先鞭をつけるものであった。
 こうして今や、ベルリンの、そしてドイツの東西の分断は解消され、その差異もなくなったといわれている。しかしである、現実には今もその差異はあるという。東西においての労働の質的評価が異なるのだ。具体的にいうと、同じ労働についても東のそれは西の85%にしか評価されないというのだ。この差異は大きい。年金にまでついてまわるからだ。むろん、それは問題として意識され、近年改善されつつあるが、それらは東側での不満の蓄積に及ぶという。こうした状況は、近年のドイツにおいての極右の台頭にも関わるというのだが私にはそれを断言するだけの知識はない。

      

      
 それはさておき、かつての東西の分断の痕跡が明確に残る地点を訪れた。
 「チェックポイント・チャーリー」と呼ばれるこの場所は、東西冷戦時代、その境界上に設けられた検問所を復元保存したもので、チャーリーというのは人名ではなく英語の愛称で、「チェックポイント・C」ぐらいの意味だという。
 しかし、その名前の響きの軽さからは推し量れない重要な場所であったのは事実である。

      
     

東西の双方から観たチェックポイント アメリカ側からみた小屋の近くの看板にはソ連兵の肖像が、またその裏のソ連側には米兵のそれが描かれているが、これはあとからのものである

 周知のように敗戦後のドイツは東西に分割され、その首都、ベルリンも東西に分割された。往時のヨーロッパの地図を思い描いてみてほしい。ドイツの東側はすべてソ連、ないしはソ連圏の勢力圏であり、したがってドイツに、そしてベルリンに引かれた境界線は東西冷戦時の、そして「冷戦」とはいえしばしば火花が散る象徴的な場であったわけである。
 いってみれば、この境界線上での出来事が、第三次世界大戦の発端たり得る可能性すらあったということである。

      

 事実このチェックポイント・チャーリーでは、ここを突破しようとして銃殺された者もいたし、手違いのトラブルで双方の武装兵士が出動したこともあった。そればかりか、1961年10月には、双方とも20両ほどの戦車部隊がここを挟んで睨み合う事態まで発生し、外交的な折衝でやっとその矛を収めるということすら発生している。

      

 そんな 事実を知ってか知らずか、今は多くの観光客が押し掛け、このチェックポイント・チャーリーをバックに集団で写真を撮るのにプロの写真家が盛んに勧誘を行うまでになっている。

      
      


 また周りには、お土産屋が目立ち、防毒マスクや軍服などを売っているが、もはや撤退している当時のソ連軍のものが目立つ。ということは、世界中どこでも見えられる米軍服より、今は無きソ連軍のそれに人気があるようだ。とはいえそれらも、お土産用に新しく縫製したものなのだが。

          


 そのすぐ近くの道路上には、61年から89年まで設置されていた「壁」の痕跡がそれと記された鉄板とともに残されている。当時のニュースや残された映像では、大勢の人が壁に登り、ツルハシなどでそれを打毀わしているが、それだけの厚みをもった 箇所は限られていて、全てでは無いことがわかる。私が撮したそれは、この短い足でも楽にまたげる3,40センチの幅のもので しかない。それをまたいで写した写真があるが手前にあるのは私の足である。またその境界をまさに越えようとしている自転車の写真を撮ることができたので掲載しておく。

          


 薄かろうが厚かろうが、国家はその壁を設ける。言語や風俗習慣など、あるいは勝手にでっち上げた歴史的起源になる題材をもとに、他者との差異を強調し自己同一性 を述べたてる。それはこのベルリンのように限られた地域であろうが、あるいはまさに南方からの侵略を防ぐためにメキシコ国境に壁を設けようとするアメリカだろうが、さらにはまた地続きの国境を持たない日本のような国だろうが、その壁は厳然としてある。
 ただし日本は海を持ってその壁としているが、その壁に関していうなら、沖縄はその壁の外である。かつての大戦においては、沖縄の滅亡でもって本土を守ろうとし、また戦後においては、日米安保条約によるアメリカとの同盟の実態である米軍基地の70%以上を沖縄に集中し、それどころか 今や辺野古に新しい基地を作り、さらに昨今は台湾有事を口実に沖縄の離島に様々な軍事設備を設置するなど、またもや沖縄を犠牲にする体制を着々と重ねつつある。

          



 ベルリンのチェックペインポイントの話がいささか脱線したが、言いたかったことは壁がなくなったからといってすべての国家の壁がなくなったわけではないということだ。 有形無形のさまざまな壁が国家を取り巻く。そしてそれがある間は人々はそのその壁の内外を巡って争い合うだろう。

 チェックポイント・チャーリーがそうした国境をもつ愚かな人類の行為を反省する材料となれば良いとは思ったが、既存の国家そのものへの帰属意識をもったままでは、あれは単に過去の行き過ぎた事例であるというにとどまるだろう

 その他、単発でベルリンで見聞したものもあったが、書き残すべきものは以上で終える。これが三日間の私のベルリンの旅であった。いよいよ次はK氏が待っていてくれるライプチヒへと向かう。

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ホロコーストと東西分断の痕跡を訪ねて 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-01 11:58:09 | 旅行

 さて、ベルリンへ来た以上、この街が20世紀の世界史の中で果たした事どもの痕跡を訪れないわけにはいかないだろう。最終日はそれに当てることとした。

      

 まず最初に訪れたのは、ブランデンブルク門すぐ南の「ホロコーストで殺されたユダヤ人犠牲者のための記念碑」である。記念碑といってもそれらしい広場に、碑が建っているわけではなく、約2万㎡の広場に、0.95m×2.38mで高さは0m~4.5mさまざまな石碑、2,711基がさながら迷路のように広がる壮大なエリアである。
 その地下には、ホロコーストの各種資料を展示した博物館があるとのことだったが、入り口付近の行列の長さに入場は諦め、立ち並ぶ石の間を歩いた。

     
 この巨大な迷路のような石の広がりは、どんな立派な記念碑にも増して、ホロコーストの不可解さを象徴しているだろう。周りの樹木や、遠望できる近代的な建造物との対比で、この異様な空間は際立ち、それによってホロコーストの歴史的実在の不気味さが突きつけられている。

     

 石碑群の端には特別のコーナーがあり、そこには3人の女性の写真と、その言葉が刻まれている。
 私もよくは知らないが、最初のコーラ・ベルリナーはホロコーストに抵抗し、1942年に刑死した女性のようだ。
 2番目のそれは、ゲルトルート・コルマーというユダヤ系女流詩人で、1943年、ナチスに勾留されて以降、生死不明とあるから収容所での最終処分の犠牲者であろう。

     


 三番目はハンナ・アーレントで、彼女はフランス、そしてアメリカへと亡命し、思想家として永らえるのだが、その彼女の言葉が英文で刻まれている。それを訳せば、「多くの人たちと同じように、彼は (・・・・)変態でもサディストでもなく、ひどく恐ろしいほど普通の人でした。」となる。
 これは彼女の著書の一つ、『悪の凡庸さについて』と同趣旨で、600万人ともいわれるユダヤ人を殺したナチスの官僚たちは、極めて普通の人々であったという事実である。

     

          
 彼女はそれを、エルサレムでのアイヒマン裁判で感得したのだが、それは誤解されたように、だから彼らは許されるべきだということではなく、だからこそこの恐怖はより深く追及さるべきだというものであった。普通の人が、淡々とこなす日常的な営為のなかで、流れ作業としての「最終処分」が実施されてゆく、アーレントはそこで欠落しているのはまさに人としての「思考」であるとした。
 地球上での残虐作用は、決して鬼畜によってなされるのではない。明日には、私達自身が自分に課された単純な作業としてそれをなしうるのだ。
 なお、この記念碑群の置かれた広場の南側の通りは、「ハンナ・アーレント通り」と名付けられていて、私はそこをうろちょろしながら、彼女のものを読んでいたころを回想していた。

     
 この近くに、ヒトラーが立てこもっていた地下壕があり、その最後の地もあって、公園の中に碑があるとのことだったが、見つけることはできなかった。
 それを諦めた後、もう一つのベルリンがベルリンたる所以の地へ向かうのだが、長くなったので次回に。
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