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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

音楽の街・ライプチヒ 八五歳のヨーロッパ一人旅

2024-08-05 15:51:09 | 旅行

 前回、バッハの存在がライプチヒの大きな歴史遺産となってることを書いたが、それが実現するために今ひとつエポックが必要であったことを示唆しておいた。そう、バッハを中心としてこのライプチヒを音楽の街たらしめたもう一人の音楽家の存在こそが重要なのである。

           

 それはユダヤ人の音楽家、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)の存在である。彼はライプチヒの出身ではないが、 38年と言うその短い生涯の後半12年間をライプツィヒで過ごし多くの業績を上げている。
 
 彼がやってきたのはライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたからであるが、まず最初に彼がした事は、当時ヨーロッパでもあまり知られていなかったこの管弦楽団を、現在我々が知るようにヨーロッパでも指折りの楽団の1つに育成したことである。

          

          ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地

 さらに今1つは、これまで述べてきた聖トーマス教会に あったバッハの業績の蓄積を見直し、それの再演に努めたことである。 それによってバッハはこれまでバロック音楽の作曲家の群れに埋もれていたにもかかわらず、そこから抜け出し、その第一人者として認められることとなった。
 しかしこれにはすでに素地があって、 14歳の折、彼がその祖母からクリスマスプレゼントとしてもらったのは、バッハのマタイ受難曲の手筆の楽譜であった。彼はそれを研究し尽くし、1829年にはベルリンでバッハ死後初めてこのマタイ受難曲を指揮し演奏している。

 そんなメンデルスゾーンだったから、聖トオマス協会に埋もれていたバッハの諸資料の多くは彼の手によって、また彼の楽団ゲヴァントハウスによって再生され、新たに命を吹き込まれるのであった。

      

             ライプチヒ市民劇場の威容

 メンデルスゾーンの果たした役割はバッハにとどまることなく、当時、初めて自分たちの音楽を対象化して論じるといういわゆる音楽評論の創始者シューマンとの連携のもと、やはり埋もれていたシューベルトの交響曲の数々を世に出したり、 またシューマンのとの論議のもと、新進作曲家に光を与えるといった役割を果たしてもいる。

 また彼の作曲家としての活躍にも触れておく必要があるだろう。彼の作品はえてして軽く見られがちであるが、私にいわせればその紡ぎ出すメロディーはまさに 語彙の豊かな詩を思わせるものがある。彼の最も有名なヴァイオリン協奏曲 ホ短調(作品64)、 いわゆるメンコンとして親しまれている曲も、このライプツィヒで作曲されゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されている。

     

     フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学

 これらのメンデルスゾーンの業績を顕彰する立像は、聖トーマス教会の西正面近くのリング道路の中央緑地帯に建てられている。 その立像の前を横切ってリングの外側へ出ると、そこにはいわゆる立派なライプチヒ市民劇場があり、そのすぐ近くに「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学」が威厳をもった佇まいで建っている。
 1843年、後進の指導のために彼により創立された「ライプチヒ音楽院」がその前身で、ドイツで最初の重要な音楽大学である。なお、1901年には「花」や「荒城の月」の作曲家、滝廉太郎がここへ留学している。
            

      

            威厳に満ちた同大学の正面

 ライプチヒは音楽の街でもある。その原動力はバッハであっただろうが、それを世に出し、さらに自らの音楽で華を添え、さらには後進のための道を整えたのがメンデルスゾーンであった。

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歴史を動かしたライプチヒの二つの聖堂  八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-05 00:45:30 | 旅行

 ライプチヒは住みやすそうな街である。直径数百メートル位かと思われるいわゆるリング内にほとんどのものが揃っている。K氏が勤務していたライプチヒ大学もそうである。彼が退職後もここにその居を定めたのはよくわかるような気がする。

 ところでこのリング内には著名な2つの寺院がある。
 その一つは聖トーマス教会である。ルター派のこの教会は音楽史上の巨人、かのバッハの活躍の根城として知られている。1685年生まれのバッハは、それまであちこちで音楽修行をしその腕を上げてきたが、いずれの地でも短期間の滞在で終始してきた。

          

 1723年このトオマス教会の音楽監督(カントル)に就任にも一悶着あったようだが、なんとか決定を見るや、1750年にその生涯を終えるまでここの地に定住し、この教会のみかこの街のカントールにも就任した。
 音楽監督に就任した後のバッハは毎週1曲、要するに年間約50曲のカンタータを作曲演奏すると言う精力的な活動をこの教会のために行うなど、精力的に活躍した。また「マタイ受難曲」などの名曲もこの教会での初演であった。

          

 しかしその当時は、テレマンやヘンデルなど他のバロック音楽家に比べるとその知名度はあまり高くなかったとも言われている。その彼の知名度を一躍上げるためには、もう一つの エポックがあるのだが、それについてはまた述べよう。
 いずれにしてもこの聖トオマス教会でのバッハの活動は、音楽史上における不可欠な大きな出来事であったことは事実である。この教会とバッハの名は、分離しがたいものとして語り継がれていくことであろう。

      
 もうひとつの教会の聖ニコラウス教会は創建こそは聖トーマスより教会よりも古いのだが、今日にまで継続するある歴史的エピソードの場としても知られている。

       
 東独時代、 市民の集会等は実質的に禁止されるなか、教会における集まりは許容されていた。1989年秋、この教会でわずかな人数による月曜ミサで、東独民主化の話が交わされた。やがてそれらは市民の間に広がりを見せ、翌週には何百人、続いて何千人とついには教会にはとても入り切れない万を数える群衆が東独の民主化を求めて市の広場全体をを埋め尽くすに至った。

           
 この運動はライプツィヒにとどまらず、東独各地に点火拡散、しベルリンにもまた飛び火することとなった。そしてそれが あの11月9日のベルリンの壁崩壊に至ったと言われる。
 これらの事実から、ベルリンの壁崩壊の数週間前にさかのぼってこの問題を提起し、拡散したのは、まさにこの聖ニコラウス教会の月曜ミサにに集まったライプチヒの市民たちであるという誇りを、今なおこの街の人たちはもっている。

           
 規模としてはさほどの大都市ではないにもかかわらず、どことなく誇り高く悠然としたライプチヒ街の雰囲気はそんなところに起因するのかも知れない。

 これがライプツィヒの数百メートルも離れない2つの教会の物語である。

【付】ライプチヒで私を出迎え、素麺をご馳走してくれたK氏につき、その趣味の山水画が素人裸足であることを述べたが、その最新作が届いたので以下に紹介する。

              

 どうだろう。参照しているのが中国のそれということもあって、日本の山水画のある種の鋭角さがなく、鷹揚な感じがするのだが・・・・。それともそれはK氏自身の性格に起因するのだろうか。

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