車の窓からはまだたまに盛りの桜が見えるのだった。
まだ植えてまもないのだろうか、子ぶりの桜もあるし、咲き誇っている立派な桜もある。
遅咲きでも、遅咲きだからか、その誇らしげな振る舞いにうれしくなる。
まるで今まで生きた分を全て回収しました、そんな立ちっぽさが、映える。
栄える。
こうしてみると、桜の木とは植えてしまえばあとはどんどん大きくなって、ひたすらたくましくなって、やがてたくさんの花をつけるのだろうか。
あんな時、こんな時もあったけれど、いつかは全てを吸収して、太く立派に育っていくものなのだろうか。
まさにこの世に敵なし。
そんな風に眺めていたら、今日になるとおおかた散ってしまっていたり、花はもうほとんど無いのに、かすかな威厳があったりするのだった。私は何でも知っているのよ、そうとでも言うように。
昨日は母の命日だった。
最初の離婚が決まった頃に父と母とたぶん3人でどこかのスナックに飲みに行き、母と二人で「二人でお酒を」と言う歌を歌った記憶がある。そんなチョイスを私がすることはないので、母が歌おうと言ったのだと思う。
うらみっこなしで別れましょうね
さらりと水にすべて流して
私の母は花で言えば、ひまわりだと言う人もいる。
でも私は母の神経質さを知っているので、ひまわりだったら牡丹ではないか、と思う。
それでいて男勝りでサッパリした気負いさもあって、あの年代の人にしては珍しく10代で車を乗り回し、まさにこの歌はそんな母のチョイスであったと思う。
二度目の離婚の時はあまり思い出が無い。
その話題は母の前ではタブーになっていた。
おそらく、寝込むようなショックだったのだろうと思われる。
母と直接会話していないので、父や妹がどのようにどれだけの情報を伝えたのかも定かではない。
ただ母は、母なりに私が離婚したことや母子家庭になっていたことを知っていた。
月に1度、実家で夕飯を食べた。
その時と昔と変わらず飲んでくっちゃべっていたけれど、その後で母の具合が悪くなるようなことが多かった。
妹に「それは私達親子(と会ったこと)のせいか?」と訊いたことがある。
妹はそんなことないよ、と言ってくれた。
それからまもなく亡くなってしまった。
もちろん直接的にそこに理由はなかったのだけど、やはり母の神経に触ってしまったのかもしれないと今は思う。
でも、母は娘にも孫にも会うのを喜んでいたし、応援もしてくれたのだ。
いつも笑っていた両親だけれども、きっとこんな風に心配していたのかもしれない。
娘が母子家庭になるなんて、最初は耐えらえなかったことだろうと思う。
こうしていろんなことを思い出したり、いろんな話をしたり聞いたり読んだりして、何らかの悟りみたいなものを得て、最後には「今のまま育てて行けば大丈夫だよ」と言ってくれたのだと思う。
そんな娘は今、五里霧中の状態でいる。
それも順繰りなのかな。
子供のことを心配しているのは、自分が元気な証拠なんだろうね。
まだ植えてまもないのだろうか、子ぶりの桜もあるし、咲き誇っている立派な桜もある。
遅咲きでも、遅咲きだからか、その誇らしげな振る舞いにうれしくなる。
まるで今まで生きた分を全て回収しました、そんな立ちっぽさが、映える。
栄える。
こうしてみると、桜の木とは植えてしまえばあとはどんどん大きくなって、ひたすらたくましくなって、やがてたくさんの花をつけるのだろうか。
あんな時、こんな時もあったけれど、いつかは全てを吸収して、太く立派に育っていくものなのだろうか。
まさにこの世に敵なし。
そんな風に眺めていたら、今日になるとおおかた散ってしまっていたり、花はもうほとんど無いのに、かすかな威厳があったりするのだった。私は何でも知っているのよ、そうとでも言うように。
昨日は母の命日だった。
最初の離婚が決まった頃に父と母とたぶん3人でどこかのスナックに飲みに行き、母と二人で「二人でお酒を」と言う歌を歌った記憶がある。そんなチョイスを私がすることはないので、母が歌おうと言ったのだと思う。
うらみっこなしで別れましょうね
さらりと水にすべて流して
私の母は花で言えば、ひまわりだと言う人もいる。
でも私は母の神経質さを知っているので、ひまわりだったら牡丹ではないか、と思う。
それでいて男勝りでサッパリした気負いさもあって、あの年代の人にしては珍しく10代で車を乗り回し、まさにこの歌はそんな母のチョイスであったと思う。
二度目の離婚の時はあまり思い出が無い。
その話題は母の前ではタブーになっていた。
おそらく、寝込むようなショックだったのだろうと思われる。
母と直接会話していないので、父や妹がどのようにどれだけの情報を伝えたのかも定かではない。
ただ母は、母なりに私が離婚したことや母子家庭になっていたことを知っていた。
月に1度、実家で夕飯を食べた。
その時と昔と変わらず飲んでくっちゃべっていたけれど、その後で母の具合が悪くなるようなことが多かった。
妹に「それは私達親子(と会ったこと)のせいか?」と訊いたことがある。
妹はそんなことないよ、と言ってくれた。
それからまもなく亡くなってしまった。
もちろん直接的にそこに理由はなかったのだけど、やはり母の神経に触ってしまったのかもしれないと今は思う。
でも、母は娘にも孫にも会うのを喜んでいたし、応援もしてくれたのだ。
いつも笑っていた両親だけれども、きっとこんな風に心配していたのかもしれない。
娘が母子家庭になるなんて、最初は耐えらえなかったことだろうと思う。
こうしていろんなことを思い出したり、いろんな話をしたり聞いたり読んだりして、何らかの悟りみたいなものを得て、最後には「今のまま育てて行けば大丈夫だよ」と言ってくれたのだと思う。
そんな娘は今、五里霧中の状態でいる。
それも順繰りなのかな。
子供のことを心配しているのは、自分が元気な証拠なんだろうね。