以前熊本史談会で「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺の控」をお話した折、八代の「遥拝堰」「山鹿の間歩」に関連して、「萩原堤」の資料を準備した。
これは宝暦5年6月、萩原堤が大決壊して、これを稲津弥右衛門という人物が7日で復旧完成したという、少々眉唾な話が残るが、これが熊本県の道徳教育の教本になっていて、これを採用した。
実は明日の例会で、短い時間だがこの話をしてくれという、運営委員会からの要望があって準備をしていた。
いろいろ資料を読んでいくうちに、7日という話は何処から出てきたのかという疑問が当然のように出てきた。
弥右衛門は自ら、難工事が予想されるこの工事に自ら手を上げて責任者となった。
藩主から正式に任命されたのは10月に入っての事である。まずは資金の調達から始めている。
翌6年4月に入り、松井家の墓所春光寺の裏山だろうか、ここを土取場として工事が始まったようだ。
そして資料はその完成が宝暦7年の3月だとしている。
「どういうこつかい・・」
工事の責任者に任命されてから、15か月後の事である。7日とはどこから出てきたのか、出典が皆目わからない。
上辺13m、下辺45m、高さ9m、長さ1㌔、26万㎥に及ぶ大工事である。
しばし爺様は考えた、上辺13m×長さ1,000mの堤上の部分に覆石が当然為されただろう。13,000㎡の覆石を7日間でやろうとすると、約5,000人の直接工と石を運び上げる人夫が必要だがやれぬ事はなかろう。これだとしか思い至らない。
土木の専門家に聞きたいと思うが、明日を前にしての17時30分すぎではどうにもならない。
せいぜい資料をもう少し読み込んで明日に備えようと思っている。