我が家の初代は磯部氏、二代目が母方の姓を継いで苗字が変わった。この磯部氏を調べようと、一時期随分頑張ってみたが、何だかよく分らない。
中公文庫発行の「日本の古代-海人の伝説」に次のような記述があった。
「愛知県岡崎市に柱町があり、そこに綿積神社が鎮座する。社伝によると、かつてこの地が矢作川に沿っていたころ、柱津彦命が水陸の便にめぐまれていたこの地に郡衙をおいて支配し、その子孫が柱津彦命を神として祀ったのがその始まりであるという。また海人族の伊勢部または磯部がこの地に先祖を祀ったのがその起こりだともいう」としている。
新撰姓氏録には皇別氏として登場している。漁猟航海を職能とした職業部の裔だという。特に伊勢地方を本拠地としていたため、伊勢部とも呼ばれていたらしい。伊勢国造に率いられ、東方海域で活動したらしく、海部氏や安曇氏などの海人族の勢力とは異なった独自の活動があったとされる。
伊勢といえば、伊勢神宮の度会神主家も伊勢国造の裔磯部祖父を始祖としている。伊勢地方の地図を見ると、磯部町や度会郡などの地名を見つけることができる。磯部氏が住んで地名になったのだろうか。皇大神宮内宮の別宮の伊雑宮が磯部町にあり、この地は倭姫命の巡行地とも言われ、御料田では六月には華麗なお田植祭りが催されるという。渡会神主家は外宮の禰宜の職を世襲する氏であるが、田村圓澄氏の著書「伊勢神宮の成立」によると、現在の伊勢市磯町はかって伊勢国渡会郡であったが、この地が磯部氏の本貫と考えられるとし、度会氏は磯部氏の伴造であり、外宮(豊受大神宮)の傍らにある高倉山の西北部を本貫としていたとしている。
行き着くところは、こんな処かもしれないが、何だか良く分からない。武将としては、秀吉の下で景石城を預かった磯部康氏の名が見えるが、西軍に組して後浪々の身となっている。わが祖の祖父は織田信長の旗下に有ったらしいが、のち毛利輝元の旗下にあって周防国下松に住居した。毛利領の縮小に伴い子供達は牢人し、「三斎公江戸へ御上下遊ばされ候時分」豊前へ召しだされている。わが祖は周防人か? 遡れば伊勢人か? 分らん・・・・
中公文庫発行の「日本の古代-海人の伝説」に次のような記述があった。
「愛知県岡崎市に柱町があり、そこに綿積神社が鎮座する。社伝によると、かつてこの地が矢作川に沿っていたころ、柱津彦命が水陸の便にめぐまれていたこの地に郡衙をおいて支配し、その子孫が柱津彦命を神として祀ったのがその始まりであるという。また海人族の伊勢部または磯部がこの地に先祖を祀ったのがその起こりだともいう」としている。
新撰姓氏録には皇別氏として登場している。漁猟航海を職能とした職業部の裔だという。特に伊勢地方を本拠地としていたため、伊勢部とも呼ばれていたらしい。伊勢国造に率いられ、東方海域で活動したらしく、海部氏や安曇氏などの海人族の勢力とは異なった独自の活動があったとされる。
伊勢といえば、伊勢神宮の度会神主家も伊勢国造の裔磯部祖父を始祖としている。伊勢地方の地図を見ると、磯部町や度会郡などの地名を見つけることができる。磯部氏が住んで地名になったのだろうか。皇大神宮内宮の別宮の伊雑宮が磯部町にあり、この地は倭姫命の巡行地とも言われ、御料田では六月には華麗なお田植祭りが催されるという。渡会神主家は外宮の禰宜の職を世襲する氏であるが、田村圓澄氏の著書「伊勢神宮の成立」によると、現在の伊勢市磯町はかって伊勢国渡会郡であったが、この地が磯部氏の本貫と考えられるとし、度会氏は磯部氏の伴造であり、外宮(豊受大神宮)の傍らにある高倉山の西北部を本貫としていたとしている。
行き着くところは、こんな処かもしれないが、何だか良く分からない。武将としては、秀吉の下で景石城を預かった磯部康氏の名が見えるが、西軍に組して後浪々の身となっている。わが祖の祖父は織田信長の旗下に有ったらしいが、のち毛利輝元の旗下にあって周防国下松に住居した。毛利領の縮小に伴い子供達は牢人し、「三斎公江戸へ御上下遊ばされ候時分」豊前へ召しだされている。わが祖は周防人か? 遡れば伊勢人か? 分らん・・・・