元和元年(1615)大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。
元和六年(1620)三齋は忠利に家督を譲り隠居しているから、「於豊前小倉御侍帳帳」はそれ以降のものであることが分る。その「於豊前小倉御侍帳帳」には、七名の「忍之者」の名が記されている。拾石弐人扶持から、知行五拾石までまちまちである。(忠利に殉死した、野田喜兵衛と同姓同名の人の名が見えるが、多分別人だろう。)家督から十二年後、寛永九年(1632)忠利は肥後に転封となる。そしてわずか五年後寛永十四年(1637)天草島原の乱が勃発するのである。原城攻撃に於て忠利の弟松井寄之は、忍之者を再三城内に送り込むが、さしたる成果が見えない。怪しんだ忠利は忍之者に目付けを付けた。処がこの忍、恐ろしくて竹把に身を隠して震えていたという。伊賀・甲賀の者は敵味方お互いに内通しながら、情報を得るというのだが、相手が一揆衆では敵方には伊賀・甲賀の者がいなかったという嘘のような話。忍之者全員が失業したという。後年の侍帳には、その人たちの名前が見られないのは当然のことである。
元和六年(1620)三齋は忠利に家督を譲り隠居しているから、「於豊前小倉御侍帳帳」はそれ以降のものであることが分る。その「於豊前小倉御侍帳帳」には、七名の「忍之者」の名が記されている。拾石弐人扶持から、知行五拾石までまちまちである。(忠利に殉死した、野田喜兵衛と同姓同名の人の名が見えるが、多分別人だろう。)家督から十二年後、寛永九年(1632)忠利は肥後に転封となる。そしてわずか五年後寛永十四年(1637)天草島原の乱が勃発するのである。原城攻撃に於て忠利の弟松井寄之は、忍之者を再三城内に送り込むが、さしたる成果が見えない。怪しんだ忠利は忍之者に目付けを付けた。処がこの忍、恐ろしくて竹把に身を隠して震えていたという。伊賀・甲賀の者は敵味方お互いに内通しながら、情報を得るというのだが、相手が一揆衆では敵方には伊賀・甲賀の者がいなかったという嘘のような話。忍之者全員が失業したという。後年の侍帳には、その人たちの名前が見られないのは当然のことである。