玄祖父上田久兵衛はその日録によると、明治二年十月十一日仕事で長洲に出かけ、腹赤にある立花宗茂夫人・闇千代の墓に詣でている。当時玉名町奉行であった上田は、毎日精力的に各地を視察しているが、この日も「鶏鳴起立平明發」して、「温泉嶽上初見雪」し「此景在言外」と言いながら「煮塩」(製塩)などを視察、途中墓参している。
立花宗茂は、一時期加藤清正に扶助を受け熊本に在した。家臣達が住んだ処は現在柳川丁の名前を残している。別居していたと伝えられる夫人闇千代は、長洲の腹赤に住んでいたらしいが、此処にも清正は合力している。この地で亡くなったらしく、「ぼたもちさん」と名付けられた不思議な形のお墓が残されている。筑後を治めた田中吉政に継嗣がなく断絶すると、宗茂は柳川藩主として復帰することになる。「お花」で知られる水郷「柳川」は、幕末期上田久兵衛との係りも深い。
http://www.muneshige.com/index.html (立花家17代が語る立花宗茂と柳川)
立花宗茂は、一時期加藤清正に扶助を受け熊本に在した。家臣達が住んだ処は現在柳川丁の名前を残している。別居していたと伝えられる夫人闇千代は、長洲の腹赤に住んでいたらしいが、此処にも清正は合力している。この地で亡くなったらしく、「ぼたもちさん」と名付けられた不思議な形のお墓が残されている。筑後を治めた田中吉政に継嗣がなく断絶すると、宗茂は柳川藩主として復帰することになる。「お花」で知られる水郷「柳川」は、幕末期上田久兵衛との係りも深い。
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