肥後堀内氏は家祖を安房守氏善としている。氏善は加藤清正に仕え、宇土城代などを勤めて慶長20年(1615)に熊本城で病没したという。墓所が宇土市三宝院にある。
没年については、サイト熊野学の熊野の歴史/略年表(近世)によると、「慶長十四年(1609)14.8.15 己酉 堀内安房守氏善、肥後国宇士(熊本県宇士市)にて死す 」等諸説ある。
武家家伝-堀内氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/horiuti.html
ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/堀内氏善
---+--安房守氏善(新宮27,000石→加藤清正臣・宇土城代)
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| (1) (2)
+--半介---構之助---+==三郎兵衛
| ‖------+===妙庵
+-----妙庵 | ‖-----+--三盛----------------------------→(三曎家)
| 三盛 |
| +--喜左衛門---+--喜左衛門-------→(謙太家)
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| +--傳右衛門-------→(傳内家)
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+--八右衛門---------------------------------------→(角平家)
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+--角之允-----------------------------------------→(軍蔵家)
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+--文右衛門---------------------------------------→(卓爾家)
肥後堀内家は六家を数えるが、上記略系図は「堀内家先祖附」「旦夕覚書」「堀内傳右衛門覚書」などを資料として作成したものだが、堀内家は女系の一族である事が分かる。氏善の甥(弟・半助子)構之助女・妙庵と、婿養子・三郎兵衛との間に三人の男子と一人の女子をもうけた。女が医家・三盛と結婚するが、この三盛の名前が「肥後入国宿割帳」に見え、堀内一族の消息の初見である。
この当時構之助(1)、三郎兵衛(2)は池田輝政に仕えていたらしいが、それを証明するものに、「備前侍帳--500石・堀内構之助」「寛永10年岡山藩侍帳--300石堀内三郎兵衛」というものがある。(ろんがいび:堀内伝右衛門の家系と親族より引用)
つまり堀内三盛が、義弟三人を肥後細川藩に推挙したのではないかと考えられる。ちなみに角之允の召出は、先祖附から寛永18年である事が分かる。
赤穂浪士の接待役を勤めた堀内傳右衛門は、三盛の次子・喜右衛門の子である。赤穂浪士にかんする記録を書き残し、赤穂浪士研究の貴重な資料と成っている。
面白いのは六家全てが200石を頂戴している事である。