津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「風説秘話」から 鑓と釣竿

2011-07-24 15:38:03 | 歴史

 金津孫太郎正澄(嫡家八代)のこと

金津孫太郎或時山鹿街道を通たるに薩摩の士ニ逢ぬ 行違時孫太郎か僕持し釣竿を向の鑓ニ打當たり 彼士大ニ怒り是非御家来を可被下と云 金津様々断レ共不聞入ニ付然らは御取■ニ任せ家来を逢可申扨御家来事此方釣竿ニ鑓を打當候故共此方より御取■可申と云しかハ彼士詞なく其侭ニて止たるとなん

 なんとも笑いたくなる話だが、あてたのは孫太郎の僕の方なのであろう。
しかし鑓が釣竿に当ったかもしれないし・・・真相は判らない。
機転を利かした孫太郎が一枚上手であったということだろう。何事も機転と冷静さが必要だという教訓。

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金津氏のこと

2011-07-24 15:35:36 | 歴史
 昨日の河喜多氏につづいてのガラシャ夫人殉死関係で、今回は金津氏をご紹介する。 
金津(かなつ)家祖・金津助次郎は、ガラシャ夫人(秀林院)の生害に自刃してお供をしたが、その最期の模様は綿孝輯録(巻13)に詳しい。
「少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり」
 時に助次郎は43歳であったとされるが、幼い男子二人が有った。秀林院の七回忌(慶長11年)にあたり夫々二百石を拝領した。嫡子・助次郎十一歳、二男又十郎九歳である。

 助十郎---+--助次郎---+--十次郎---十次郎---十次郎---略(十次郎家)
        |        |  
        |        +--又助----左次兵衛---又助---略(又之允家)
        |
        +--又十郎----助十郎----又十郎----助之進---略(十郎家)


 父の従兄妹(祖父の三弟の長女)が金津於兎三郎なる人に嫁いでいるが、どの金津家なのか分からないでいる。高祖父・上田久兵衛の二男・彦熊の次女が祖父の弟に嫁いでいるから、父の従兄妹は久兵衛の娘そして孫娘の二代の血を受けた。男子は亡くなり絶家、関係者のお墓は禅定寺の曽祖父のお墓近くにある。上田久兵衛もここに眠っている。
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