昨日の河喜多氏につづいてのガラシャ夫人殉死関係で、今回は金津氏をご紹介する。
金津(かなつ)家祖・金津助次郎は、ガラシャ夫人(秀林院)の生害に自刃してお供をしたが、その最期の模様は綿孝輯録(巻13)に詳しい。
「少斎(小笠原)と共に駆廻り御死骸のあたりへ猶燃草を投込、所々に火を散らし、台所にはしこを掛け、屋根の上にて大肌抜きつゝ立、われらハ金津助十郎と云もの也、越中守奥方生害にて少斎、石見(河喜多)も殉死を遂け畢ぬ、士の腹切て焔の中に飛入りしとなり、言上の表にはのせす候へとも、諸人の耳目を驚し勇猛の振舞なり」
時に助次郎は43歳であったとされるが、幼い男子二人が有った。秀林院の七回忌(慶長11年)にあたり夫々二百石を拝領した。嫡子・助次郎十一歳、二男又十郎九歳である。
助十郎---+--助次郎---+--十次郎---十次郎---十次郎---略(十次郎家)
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| +--又助----左次兵衛---又助---略(又之允家)
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+--又十郎----助十郎----又十郎----助之進---略(十郎家)
父の従兄妹(祖父の三弟の長女)が金津於兎三郎なる人に嫁いでいるが、どの金津家なのか分からないでいる。高祖父・上田久兵衛の二男・彦熊の次女が祖父の弟に嫁いでいるから、父の従兄妹は久兵衛の娘そして孫娘の二代の血を受けた。男子は亡くなり絶家、関係者のお墓は禅定寺の曽祖父のお墓近くにある。上田久兵衛もここに眠っている。