細川家家臣に小栗氏がある。まさに越後騒動の犠牲者である。(論考:越後騒動覚書)
小栗氏の祖・小栗兵庫は、一方の主謀家老小栗美作(藩主光長室の妹婿)の弟で、事件に連座して流罪となった。兵庫には七人の男子があったが、下の四人岡之助・八歳、八之助・六歳、六十郎・四歳、小三郎・二歳が乳母三人と共に、松平出羽守に預けられた。
天和元年(1681)七月四日細川家にお預けの命が発せられる。早速出羽守屋敷に出かけて四人を受け取ると芝御屋敷に召置き、七月六日には江戸を発っている。大阪に七月二十五日着、二十八日には船にて出発、八月八日鶴崎に着いている。そして八月十二日熊本に到着した。
四人は当時竹之丸にあったとされる囲い屋に入れられここで過ごすことになるが、八之助は元禄七年(1694)十九歳で疱瘡により死去、小三郎も正徳三年(1714)労症(ママ)により三十四歳で亡くなっている。享保五年(1720)幕府より「御預人御免」の沙汰があり、岡之助・六十郎の二人は四十年振りに「囲い屋」を出ている。その後二人はそれぞれ五十人扶持を与えられて細川藩士となったのである。父兵庫は配流先で死亡、松平陸奥守に預けられた兄三人のうち二人は死亡、残された一人が同じ日に同様の沙汰が下されている。
越後騒動の傷は深い。八歳、六歳、四歳、二歳の子供に何の罪が有るというのだろうか。小栗の名を聞くたびにいささかの憤慨を禁じざるを得ない。