これは志水蘭陵(隼太)が書き残した「徒然の餘樂書」という一文である。
志水蘭陵 名は正房、隼太と称し、蘭陵と号す。食禄三百五十石、目付、用人、
八代番頭及び番頭を勤む。甞て求言のことに就き封事を呈して賞せらる。
嘉永四年九月廿二日没す、享年七十。墓は春日萬日山。
文化十一年五月(目付)~文政元年七月 用人
文政元年七月~文政六年三月 八代番頭 九百石・内六百石御足高
文政六年三月~文政九年七月 高瀬町奉行
天保五年四月(三拾挺頭)~弘化二年三月 五十挺頭
弘化二年三月~嘉永四年九月(病死)番頭
嘉永四年三月~ 同上 鶴崎番頭
我等兄弟四人(長兄・隼太、姉・佐分利又兵衛妻、次妹・不破敬次郎妻、次弟・十兵衛)あるが中に、男子の長に生れ、 上の御恵は云もさらなり、御先祖の御武功、且照善院様御積徳に因て、大組附にて志水の家相續致し、間も無く御目代蒙仰、何一つ仕覺候事もなく、只々當惑致候へども、折角蒙命候に付、涯分を盡し相勤居候處、於江戸吉田太郎兵衛身まかり候に付、急に出府仰付られ、不時に罷登、白金に着候へば、照善院様御遠去の御小屋にて、入込候節は誠に御様子を存じ出し、絶入計に候へども、氣力を取直し相勤候、惣體白銀(金)詰は、二ヶ月に一度も召出され候御格の處、諦觀院様御家督の御砌故か、頻々召出され、翌年初御入部御供振替仰付られ、龍口へ引替候上は、毎年尚又引返、御参勤御供仰付られ、翌年御供にて罷下候處、御用人蒙仰、莫大の御足高下置れ、御機密御用、指はまり相勤由にて、御召居られ候 御紋附御羽織、乍恐御涙かヽり候を、御手づから拝領仰付られ、誠に以冥加なる事にて、其後追々御参勤、御歸国御供、缺なく仰付られ、罷登居候處、御歸国御延引に付、御家老衆へ御用在せられ、御直書持参罷下候處、尚御足高下置れ、八代御番頭仰付られ、罷越相勤居候内、山城殿家格に付、不落着の儀有之議論起、六ヶ年の間色々申分有之、つまる處御役御免遊され、大組附仰付られ、熊本へ御請に罷越候へば、於御花畑御用有之、坐席持懸にて高瀬町奉行仰(付)らる、彼地へ引越四ヶ年相勤候處、貞心院様御病気に付御断申上、監物殿組に召加られ、組並御奉公申上候、三ヶ年振御鉄炮二十挺頭仰付られ、間もなく三拾挺頭に轉じ、亦間もなく五拾挺頭に仰付られ、御足高も下され、相勤居候處、御足高の内五十石地面に直下され、其後不慮の怪我致し、足痛にて難勤、御断の内意差出候處、押て保養を加候様、指返に相成候内、御番頭仰付られ、莫大の御足高をも下置る、別禄に召出され候以来、家に取冥加なる儀に候へども、前條の通足痛に付、乍恐御断申上度内存、同役に申述候處、一統申談に相成、是非押て相勤候様との事に付、うつら/\相勤居候へとも、如何體にも足痛勝れ不申、御断に決居候處、稲津久兵衛、今暫押て勤候様、御家老より申聞られ候趣申候に付、足痛の様子委敷申述置候處、市郎兵衛殿より、小島隠居を以、是非三四年相勤候様申聞られ、兎角押移居候中、頭殿より召に参、罷越候處、御家老衆より留候様との事にて、乍大義今暫相勤候様申聞され候に付、足痛申述候へ共聞入られず、然らbあ篤斗勘考の上御返答申上bえく引取、両三日延引致候へば、頭私宅に見へ、最早勘考も出来たるや、是非留り候様との事になり、右の通御深切に付、此上は可成丈相勤可申段、及返答候處、不恠大慶、早速御家老衆へも可申聞との事なり、相勤居候内、鶴崎順點に當り、七十歳にて旅詰如何と存候へども、志水家始て御番頭相勤候事に付御受申上、近年弱、氣力も薄く、迚も命を持可歸とは不存、心中に妻子には長の別と暇乞して、出立致候處、何とか別も悪く、大津に着ても氣分も不宜、鶴崎へ着、足痛は彌以鹽梅悪く、夫故氣力も乏しく相成候へども、樂にして一ヶ年無難に勤歸らんは、煮豆に花とあきらめ、専ら氣力を取直し、右書記置候事
参考:志水家略系図 ■志水家略系図 再修正 権之助を初代として隼太は7代目となる。(隼太家300石)