北村甚太郎覚書
丹後国田邊御籠城
(一)忠興公御夫人御自害ノヿ 幽齋公田辺御籠城ノヿ 北村甚太郎苗字ノヿ
イ付
一慶長五年に奥州景勝謀叛の由 家康公被聞召既に御
イと志て
出馬被成尓付て御先陣羽柴越前守忠興公御舎弟
細川玄蕃頭 同長岡与十郎 息の与一郎何連も大軍越卒し
七月初比関東へ御出陳被成候 然處ニ石田治部少輔三成謀叛
を企て中国九州廻文し諸勢越催して 家康公為退治
関東へ令発向の砌大坂尓被召置候 忠興公乃御内所を毛利
輝元方より人質尓取へきよし志きり尓申遣候得とも被付置候
小笠原少斎河喜多石見中々承引不仕御内所如何被思召
候哉七月十七日御自害被成尓付小笠原少斎河喜多石見
切腹仕御供申御屋敷尓火越かけ相果申候 明累十八日飛脚
丹後国へ到来して 幽齋公へ具尓申上追付石田治部少
輔一味の者丹後国を責つぶし可申其聞有之候
尤 忠興公御出陳の跡乃儀尓候へ者別 幽齋玄旨公御下知
を以国中の武具玉薬田邊の城へ被寄宮津の城くみ乃志ろ
嶺山の城其外所々を悉く地焼して一国一城尓被成別
幽齋玄旨公御居城田辺の城へ大軍を引請可被遊一戦の旨
依仰御籠城の御覚悟御書付を以銘々の受取口相定城
郭を堅メ申候 我等儀大手の矢倉を御預け被成私親石見弟
勘三郎妻子以下譜代の者とも一人も不殘召連皆と一所尓
相果可申尓相極り籠城仕候 其時我等名越北村甚太郎と申候
豊前へ罷越居候て中務殿より宮村出雲尓被■て弟勘三郎
も北村勘兵衛と名越替給候 余人ハ親か城尓参り候得とも
子越残しなと仕候故後にたゝり有之衆も候事
(二)田邊城籠城ノ人数及寄手ノ人数ノヿ
一忠興公御留守故越中の人数わづか五十騎の内外なり 寄手乃
人数大積り壱萬五千余騎と申候 大将分は小野木縫殿之助
石川備後守 谷出羽守 川勝右兵衛 藤懸三河 長谷川
鍋 高田河内 毛利勘八 早川主馬 中川修理 竹中源助 杦原
伯耆 別所豊前 小山大和 赤松左兵衛 山崎左馬 木下右衛門
源仁法印 生駒雅楽 御使番二頭右合二十頭身躰相應
乃人数引連/\追々尓責来り山岸ニ陣取被申候事