津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■部分御舊記・軍事部八(4)

2021-11-04 13:05:02 | 史料

                     ・本丸塀著者

道家左近右ヱ門与
一、柳瀬茂左衛門
  一、二月廿七日本丸塀ニ著申候所ニ鑓之柄ミも被切申候 其時塀ニ乗可申と仕所ニ矢さまゟたかもゝをつかれ石垣ゟ落申候
    証人小笠原備前内高橋金右ヱ門 証人口相違無御座候已上

一、續 平右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ノ上ニあかり鑓をつき込申候 内より鑓を突出シ申候 殊外石打申ニ付石垣之上ニたまり不申候て
    石垣ニ付居申候 三度石垣の上に上り申候 証人下村五兵衛・竹原少大夫より引可申御意之由ニ付下村五兵衛・竹原少大夫
    同前ニ引申候以上
  一、二月廿八日本丸に參下村五兵衛・津川四郎右ヱ門殿・長谷川仁左衛門一所ニ居申候以上 証人相違無御座候以上

一、下村五兵衛
  一、二月廿七日本丸海手之石垣角より南方ニ付竹原少大夫・續平右衛門言葉をかハし申候 其後石垣ノ上ニ上り敵と二度迄
    鑓仕候 証人相違無御座候以上

一、明石源左衛門
  一、下村五兵衛・竹原少大夫
    一、二月廿七日本丸石垣きわニはやく著申候 証人小崎与次兵衛則塀越ニ鑓にてせり合鑓之柄被切申候 両度乗懸り候へとも

    石にて打被落申候 其後本丸ニ乗り明廿八日二本丸松ノ木のきわにて壱人鑓付うちとり申候 猿木何右衛門・小崎与次兵衛
    本丸にてハ門池次郎兵衛・難波善右衛門慥に見届申候 証人相違無御座候以上

一、樹下右衛門
  一、二月廿七日海手之方塀ニ著申候 鑓にて突被落候処武藤長兵衛見申候 二度目ニ又乗上り申候処ニ又鑓にてつき被落手負申候
    其段柘植源左衛門見申候 証人無紛候以上

一、町 熊ノ介
  一、二月廿七日本丸塀ニ付矢さまゟ鑓にて胸つかれ申候 其鑓を此方ニ取置申候 其後本丸へ乗込廿八日二武藤長兵衛一所ニ居申
    敵つきころし申候 手負申ニ付花房次右衛門一所ニ引取申候 証人相違無御座候

一、鎌田源大夫
  一、二月廿七日本丸石垣ニ乗ならしの石に片膝をかけ鑓を打合申候 竹内次郎大夫見可申候 其處にてハ鑓合セ申ものは私一人にて
    御座候 同廿八日之朝敵二人仕留申候 其段原田十次郎兄弟見申候 証人相違無御座候

一、牧 文四郎
  一、二月廿七日本丸塀下ニ著鑓手負引取申候 弓削五郎兵へにて御座候 証人相違無御座候

一、竹内次郎大夫
  一、二月廿七日本丸石垣ノ根ニはやく著石垣ならしの上犬走江あかり鑓にてかち合申候 鑓にて甲のまひさしつき落申候
    其後あかりに私鑓つき出シ候を敵鑓をとらへ引相申候へとも我等引かち申候 其後本丸へ乗り敵大勢のき申候間私つけて
    參候ヘハ敵鑓にて左の手をつき申手かなひかたく候故引取申候 右之証人松野縫殿助・廣瀬杢・鎌田源大夫にて候
    証人相違無御座候

嶋又左衛門与昇奉行
一、川村猪右衛門   後、戦奉行寺本八左衛門と戦功につき種々口論に及び猪右衛門討かかるも殺害さる   
  一、二月廿七日昇召連北之方塀裏ニ著居申候 賞民高見権右衛門・酒井七郎右ヱ門 証人口相違無御座候已上

松野左馬助与
一、清成八十郎
  一、二月廿七日本丸塀ニ著則塀ニ乗申候所鑓数にて被突落 又塀ニ乗申候を又被突落私之目ノ下を被突申候
    証人丹波友之助・中根半丞・財津少介・上津浦太兵衛 手痛廿八日ニ不罷出候 証人口相違無御座候

加賀山主馬与
一、鯛瀬杢助
  一、二月廿七日本丸石垣際へ著 則同勢續候へと申石垣に上り申候所ニ内より鑓にて被突落候時石垣下にて右之足を味方の鑓に
    て被突申候 証人弓削五郎兵衛・奥村二郎右衛門・菅十兵衛 証人口相違無御座候已上

谷主膳与
一、小林半左衛門                                (尸ニ月=肩か 崎=先)
  一、二月廿七日本丸池上石垣を上り塀ニ著先より敵と突相右之手に鑓疵負申候 其後左ノ■崎ニ而被打引申候
    証人志水新丞 証人口相違無御座候已上

右同与
一、永良孫大夫
  一、二月廿質日本丸海手之角五六間西之方石垣に著申候 石垣を上り候所にてミけんを被突石垣下へ落候
    証人弓削五郎兵衛 証人口相違無御座候已上

小笠原備前与
一、小笠原采女
  一、二月廿七日本丸大手口東之角石垣ニ著 其後塀下ニ著申候 証人米田与太郎・伊丹角助 廿八日ニ本丸にて浅山修理一緒ニ罷
    居申候 証人口相違無御座候已上

長岡佐渡守与
一、志水新丞
  一、二月廿七日本丸石垣へはやく著申候 則石垣へ上り塀へ著申一所に長岡佐渡守内田原清兵衛せかれ田原角十郎鑓にてうでを被
    突候を見申候 又石にて犬はしりゟ被打落引申候 私者共ニ之丸門口にて数多手負・討死又本丸石垣下にても右同前ニ而御座候
    証人口相違無御座候已上

平野九郎右衛門与
一、熊谷忠右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ニ早く着其儘塀ニ上り申候 塀下打払申敵と突合申候 松山兵左衛門・牢人一人一所ニ居申三人共鑓を打お
    り申候 其後左ノ足石にて被打叶不申ニ付而引取申候 証人口相違無御座候已上

一、岡本源次
  一、二月廿七日本丸塀ノ手ニ著鑓疵壱ヶ所長太刀疵壱ヶ所負申候 証人金津五郎助 証人之口紛む御座候

一、岡本四郎太郎
  一、二月廿七日本丸塀裏ニ著敵つき出シ候鑓を奪候とて石垣ゟ落申候 親源次手負申候ニ付引懸ヶのき夫ゟ又石垣きハニ著申候
    証人朽木五右衛門・金津五郎助ニ而御座候 証人口相違無御座候

一、入江八郎兵衛
  一、二月廿七日本丸塀ニ著申候 塀之破よりニ鑓つかれ引取申候 証人佐田長三郎 証人之口紛無御座候

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■川田順著「幽齋大居士」三四、不二の高根

2021-11-04 06:52:04 | 書籍・読書

      三四、不二の高根

 久方の空につもれる白雪や明けゆく不二の高嶺なるらむ
 この秀歌は「禁中に富士の山繪にかきたる御屏風奉りし時」と題詞して衆妙集に収
められてゐる。詠富嶽の詩歌おびたゝしき中にも、上代では山部赤人の歌、後世では
石川丈山白扇倒懸東海天などが最も人口に膾炙してゐる。洛北詩仙堂の主人丈山石
川重之は文武兩道の高士として、どこか幽齋に似通つたふしもあるけれども、人間の
規模の大小が懸絶してゐる。白扇倒懸云々、わかり易くもあり、美しくもあつて世俗
には觀迎されるが、日本鎮護の大嶽を掲揚したものとしては小さ過ぎる。幽齋が一首
の崇高に如かざるべし。
 幽齋は常に皇室を尊び奉つた。歴史を貴び傳統を重んじたるがゆゑに、古今傳授を
維持した。彼から秘訣口傳を授かつた人々の中には、桂光院智仁親王のごとき高貴の
お方さへあらせられた。田邊籠城の際、勅命によつて老のいのちを助けていただいた
一事は、いふまでもなく肝に銘じてゐる。歿後、遺集の編纂せられたとき、忝くも、
後水尾院より「衆妙集」といふ名號を賜はつた。泉下の幽齋、感泣したに相違ない。
 老後、皇恩の萬分一に報い奉らんと思案してゐたころ、内裏の御修理が成つたの
で、奉祝の微衷を致さんと、一雙の屏風を獻上することに決めた。當時は山樂
興以
等伯友松などといふ巨匠がゐたので、それらのいづれかに揮毫させたのであら
う。畫題に富嶽を撰んだのは、幽齋の發意にちがひなく、それも、旭光やうやく及ば
んとする暁天の趣を描かせたのであることは、前掲の和歌によつて推定し得る。それ
から、この和歌は畫讃として屏風に書いたかといふに、さうではなからうと愚考す
る。謙虚の幽齋、さやうのことを致すは皇室へ畏れ多しと考へ、又、友松・等伯ら巨
腕の作に蛇足を添へることのおろかしさも承知してゐたにちがひない。
 幽齋は上方育ちだけれども、富士山を知つてゐた。小田原征伐の從軍記を檢する
に、天正十八年三月某日「なほ行々て駿府につきぬ。富士を初てみ侍りて」として、
 なかなかに霞すまぬ不二の高根かな
と發句を誌し、續いて「府中に逗留の中に」とあつて、
 天の原あけがたしらむ雲間より霞みてあまる富士の雪かな
 箱根陣中よりの望嶽はしばしばであつたらうし、又、日記によれば、大磯小磯を經
て「鎌倉見物」もしてゐるゆゑ、到る處の海岸から殘雪浄らかなる高根を望見したで
あらう。獻上の屏風出來して、一旦居館に搬ばれた時、畫中の東海風景に對して幽齋
は、秀吉をおもひ、氏郷をおもひ、戰死した一柳齋をおもひ、好敵手氏規をおもひ、
陣中見舞に來て連歌の興行をした上總の昨夢齋をおもひ、正宗の買ひそくなつた鶉を
おもひ、伊豆の海の渦輪鰹の美味をおもつたに相違ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする