津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■借金とその返済

2021-11-17 13:51:46 | 歴史

 以前このブログで■公式記録・百石取りの家計をご紹介したことがある。
うろ覚えだが、この出典資料には200石取りとか500石取りなども併記してあったように思う。
私の悪い癖で出典を記していないから、それらをここでご紹介できないのが残念の極みだが、この資料に依ると100石取りでも3石8升の赤字だとしていが、たしか200石取りで何とかトントンとあったように記憶する。
しかしこれは、臨時的な支出を伴っていない。例年思いがけない出費があって、たとえば幕府からの普請の要請だとか、江戸屋敷の火事・熊本府内の火事その他自然災害などにおける、急なる出費などを要する事が発生すると、強制的に徴収されることになる。払いが出来ないと年四割の利子が加算され、蔵米から強制的に徴収される。

そうであれば、1,000~2,000石も頂戴する高級家臣はさぞ優雅であろうと思われるが、それがそうもいかぬから不思議なことである。
これもさきにご紹介した2,000石取りのS家の貴重な三年分の「借金返済計画」が存在する。
・赤字が発生した年は、1,257石余の収入がある。しかしながら支出の累計が1,972石余に及び715石余の赤字である。
その内訳は(1)年4割利息の借米が840石、(2)拠出金が223石余、(3)江戸借金288石、(4)元和7年暮の御袖判による借金562石余(5)米の大阪までの運賃59石余である。
・そして翌年(寛永三年)には黒字にするというのである。
収入は前年同様の1,257石である。前年借金の大幅な返済が完了しているため、支出は前年の残米を大阪で処分しての返済
(運賃とも)+拠出金80石で差し引き356石余の黒字である。
・翌々年になると知行収入に加え前年の余剰米を貸し付け(年利4割=499石)が+され計1,756石。支出は拠出金160石+借銀・借米659石余=819石余 差し引き937石の黒字とするとしている。
果たしてこの計画通りに事が運んだかどうかは定かではないが、この通りだとすればこの脅威的改善は、年4割という貸し付けからくる利益に依っている。

この高利の金を借らざるを得ない家禄の低い武士や扶持米取りが多く存在していたのである。
我が家の先祖は200石だから、500石だから関係なかろうと思っておられるかもしれないが、このような金を借りて拠出金を拂い、汲々の生活をされていたかもしれない。

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■密

2021-11-17 08:18:48 | 徒然

 そろそろ我が「メダカ」さんの冬支度を準備しようかと思っている。
まだ水温は下がっておらず、メダカの活動も落ちてはいないように思える。
しかし、どんどん気温の方が下がってくるから、ケースの外廻りに断熱対策を施さなければならない。
毎日餌を与える時健康状態などを観察しているが、皆おおいに元気に動き回っている。
昨年から今年にかけては成魚が11匹ほどだったが、産卵期には9匹ほど生まれて同じボリュームのなかで泳ぎ回っている。
少々水量を増してやらないと、大きいものでは30ミリ、小さいものは10ミリほどしかない個体が入り混じって泳いでいるから「うじゃうじゃ」という感じで大いに「密」な状態である。
人間もメダカもこのご時世密は避けねばならない。

閑な爺様の時間つぶしにはもってこいの、朝と夕方のお世話仕事である。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(七)

2021-11-17 06:39:17 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 歌歴(七)

 終りに、彼の歌風及び歌論を検討しよう。

 「幽齋の歌風は近體に終始し、殊に二條流なり」と結論するのであるが、それは餘
りに明白なことで、縷述する迄もない。彼は二條流の祖なる俊成・定家を斯道の聖と
仰ぎ、降つては新勅撰集以下の十三代集を精讀し、遡つては、俊成等の宗とした古今
集を勉強したけれども、萬葉集の古體には關心すること甚淺かつた。古今集を十編讀
んで、萬葉集を一編讀んだといふ程度であつた。連歌及び發句には、當年の流行に漏
れず、彼も興味を持ち、その影響の片鱗とも思はれる言葉づかひが、稀ながら彼の和
歌に認め得ることを特記してよからう。幽齋の近體には、新古今集にいささかの宗祇
宗長流もまじつてゐる。それから、世間では、當年の歌人といへば幽齋と長嘯とを並
べて云ふ常識があるけれども、兩者は人間としても歌人としても大分相異なつてゐる
のである。この事に就いては、小著の戰國時代和歌集昭和十八年刊の中に論じて置いたの
で左に轉録する。

 幽齋・長嘯は桃山時代より江戸初期に亘る時期の代表的歌人なれば、二人を比較
して論評すること最便なるべし。先づ二人の人物を考ふるに、到底同日の談にあら
ざるほど幽齋がすぐれたり。武將としての閲歴はいふ迄もなき事ながら、幽齋は室
町將軍のために盡したる若年の頃より田邊籠城の老齢に至るまで、百戰往來の勇者
なりき。長嘯(勝俊)は武門に生れ秀吉の近親にてありながら、戰功の一も語るべ
きものなし。關原役直前に於ける彼の態度の如きは、境遇とは言へ、むしろ陋とす
べし。故に予、長嘯を好まず。藝能の才分より考ふるに。幽齋は刀剣の鑑定に於い
ては優に本阿彌の資格を有し、茶道に於いても、歌舞音曲に於いても、有識禮式の
古實につきても、料理の包丁をとりても、容易ならざる玄人にして、多藝多能、驚
くに堪へたり。長嘯は歌道以外に聞ゆるところ無し。次に本論に入り、和歌史上の
位相を比べんに、幽齋は初め二條流の三條西實枝に就き學びしも、後には同派の柱
石となり、斯道廢れんとせし戰國時代に在りて能く文運を維持したりき。長嘯は後
れて生れ、戰國時代と關係甚薄きも、清新の歌を創めて江戸時代の魁をなじぬ。兩
者甲乙無しと謂ふべきか。歌風を比較するに、幽齋は端然として傳統に據るを常と
し、秀歌の數に入るべきものを不少遺したるが、長嘯は往々にして新奇を好み、誹
諧に堕せんとする傾向のものを詠みぬ。幽齋にも諧譃あれども、その諧譃は最初よ
り狂歌のつもりにて詠みしものにて、長嘯が眞面目なる歌の中に誹諧味を混じたる
とは根本を異にす。さればこそ後に難擧白集の如きもの現出せしなれ。小澤蘆庵が
長嘯の墓を鞭ちし傳説さへあり。又、長嘯の歌の一長所としては、洛東靈山、後、
家集の亞流とさへ見ゆることあり。その情は常にほそぼそとしてこまやかなり。幽
齋は意力の人、長嘯は感情の人。

 幽齋の歌論と穪すべきものは少々傳へられてゐるけれども、獨創卓見は多くない。
これに就いては別の章(遺著)にて述べようとおもふ。

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