「歌仙幽齋」 歌歴(五)
さて、この古今傳授なるものは、二條家の正統を學んだ東常縁に始まり、文明三年
の頃宗祇に授けられ、宗祇より三流に分かれて傳はつた。三條西實隆に傳はつたもの
が、二條家の當流で、幽齋の受けたのは、それであつた。肖柏に傳へられたるを境傳
授といひ、肖柏より宗二に授けたるを奈良傳授といふ。その内容といへば、古今集全
部の口授と、特に秘密とせられたる三木三島などの解釋であつて、後世の學究より觀
れば殆ど無價値に等しきものである。されば本居宣長の如きも、常縁を痛罵して、
「後世を誤る奸賊、此の常縁に極まれり」とさへ言つた。かやうのものを尊重し維持
した幽齋に對しても、後代の批難はあらうと思ふが、それは、當年の時勢、寰境と相 寰の宀冠の下に八とある
俟つて論ずべきものだ。三條西に就き、二條流歌學を勉強して歌人となつた彼として
は、内容は兎も角、師匠の家の歴史として尊重せられて來たものを抛棄するに忍びな
かつたのであらう。按ふに彼は、古今傳授を歴史とし、儀式として保持したに止ま
り、それが彼の作歌や歌論の上に影響したことは、毫もなかつたのである。
幽齋の和歌及び歌論を檢討するに當つては、幽玄の理念と彼との關係を是非穿鑿せ
ねばならぬ。みづから幽齋玄旨と稱した彼である。二條流なる以上は、定家、及び其
父の俊成を宗とするが必然で、然る上は、自分が出來ても出來なくても、幽玄を和歌
の最高理念とすることになる。幽齋と幽玄との關係に就いては、久松潜一博士の日本
文學評論史、總論歌論篇の中に要を盡くした卓見がきされてゐるので、それを少しく
抜抄させて戴く。
「細川幽齋の見解は從來の歌論の集成にある。幽齋聞書を見ても二冊の中に四十項
目に分れて居るが、大體奥義抄や八雲御抄によつて扱はれて居る問題に對して先人の
説をあげて、多少の私見をあげているのである。さうして比較的短い中に雑多の問題
がよくまとめられて居る所に幽齋の綜合的傾向は見られる。」「中世の幽玄論のやうな
内容としての静寂感といふ如き點にふれる所が殆どなく、むしろ形式論としての餘情
論であり調論となつて居るのである。これは近世の香川景樹の調の如きも中世の餘情
主義と通ずる所がありながら、その餘情の内容に於て古今的な優雅感となつたのと同
様である。これは中世の幽玄論の形式的方面のみが理解されたと見られるのである。
この傾向の先驅を幽齋に見るのであつて、宗祇等ではなほ中世の幽玄論を基調として
ゐたのが幽齋に至つて幽玄論の形式的方向のみを見ることによつて、平安時代の古今
集を重んじたのもそのためである。かくて幽齋が中世の象徴的手法をみとめながら、
なほ古今敵な調を主張した所に。景樹へ進んでゆく點がみられるのである。しかし幽
齋に於ては景樹ほどの積極的な主張は勿論見られず、ただ平安時代から中世にかけて
の歌論の粋をを集めたといふべきであり、近世への過渡的意味しかないと思ふ。」