「歌仙幽齋」 歌歴(三)
藤孝が實枝に入門して歌歴を踏み出したのは、よほど若い頃からのことと想像出來
るが衆妙集を披いても、青年時代作と年月の明示してある歌は一首も見當らぬ。或書
に云。永禄五年佐々木承禎、義秀と相爭ひ、殆ど干戈に及ばんとす。藤孝、將軍の内
命をうけて近江に下り、之を調和す。その時
氷りゐし津田の入江もうちとけて國もゆたかに春風ぞふく
と詠みて與ふ。承禎大に喜び、駿馬一頭を贈る。藤孝、將軍の内命を全うして歸京
す。云々。永禄五年といへば藤孝廿九歳であつた。又、或書に云。永禄十年八月足利
義昭が江州甲賀の奥より出て琵琶湖を渡りて若狭へ落去せんとせし時、随行せし藤孝
が義昭の落魄江湖暗結愁云々の詩に和して、
よるべなき身となりぬれば汐ならぬ海の面にもうきめみるかな
と詠ず、云々。乍併、信長記や續應仁後記にはこの歌「從者」詠とのみして、藤孝と
は明示していない。さて、右の「氷りゐし」「よるべなき」共に傳説敵のもので疑問
の餘地がある。衆妙集所収の歌に就いて述べよう。家集春部「はやくのことなりし、
奈良にまかりて、三條亞相實澄めしぐせられ、手向山ちかき藤樹庵にて當座有りし
に、春旅といふ題をさぐりて」と詞書し、
いざ櫻花のぬさをや手向山紅葉にあける神の心に
といふ一首あり、「はやくのことなりし」とことわつてあり、又實澄(實枝に同じ)
は天正七年薨ゆゑ、この歌の出來たのは、藤孝壮年の頃、或はもつと若かつた頃とい
ふことがわかる。次に作年月の推定し得るもので最も早いのは、「月の比越後の國主
上杉なにがしにつかはしける」と詞書せる一首、
白妙の月は秋の夜かくばかり越路の山の雪もありきや
これは上杉謙信宛のもので、謙信は天正六年三月歿ゆゑ、贈歌はそれより以前と
いふことになる。次は「播州御陣の時、所々見物のついでに、明石の浦にて夜のふく
るまで月を見て」と詞書した一首、
明石潟かたぶく月も行く舟もあかね眺めに島隠れつつ
といふのである。これは天正六年の夏、四十五歳の時と筆者が一應推定した迄で、確
實のことは究め難い。それから、天正八年、同九年、幽齋玄旨と改名してから同十五
年、同十六年、同十八年と漸く作年月の明白な歌が現れて來るのである。