津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(四)

2021-11-12 15:56:50 | 書籍・読書

      「歌仙幽齋」 歌歴(四)

 天正十四年に幽齋は詠歌大概抄を著した。次で同十五年秀吉の島津氏征伐に随行し
て九州道の記を書き、同十四年小田原征伐にも參戰して東國陣道之記を著した。共に
簡單なる紀行文で、多數の和歌と少數の發句をまじへてゐるが、殊に九州紀行中の和
歌にはすぐれた作多く、歌人としての幽齋の頂點ではなかろう乎と思考する。彼れ時
に五十四歳の男盛りであつた。

 この頃から幽齋の文名一世を壓し、堂上に、武家に、彼の教を聽く者夥しきに至つ
た。その主要なる人々としては、八條宮智仁親王の如き高貴を首とし、公家にては中
院通勝・烏丸光廣・三條西實條等あり、武將には島津義久あり、新納忠元の如き達者
さへ詠草を送つて合點を乞うた。豐臣秀吉は明らかに門人とはいひ難きも、衆妙集を
撿するに、彼と幽齋と屢々和歌の應酬あり。又、松永貞徳・佐方宗佐の如きも、彼に
師事した。末松宗賢の幽齋尊翁御葬禮記の中に「かみは雲の上より下は田舎に至る迄
も、はる/\と心づくしの波を分、歌、連歌の點、色紙短冊の所望、禮法書札、亂舞
太鼓の傳授、御門前馬の立あへる隙もなし」とある通りだ。

 慶長五年秋、關原役直前、幽齋田邊に籠城中、死期近きを知り、和歌秘訣の書を悉
く皇弟八條宮智仁親王に獻ぜんことを請うた。親王は幽齋救出の議を奏せられると、
畏くも、後陽成天皇には、幽齋の死によつて「達道の國材」を喪ひ、歌道の廢れんこ
とを惜ませ給ひて、親王に仰せて和を講ずべしとあり。その叡慮のほど傳達せられる
と、幽齋決然として、「和を請ひて開城するは武士の本意にあらず、よつて只今のう
ちに獻ずべし」と奉答して、古今相傳の箱に證明の狀を附し、並に二十一代集、源氏
物語極秘などを、禁中、親王、及び烏丸光廣其他に獻呈すべく使者に渡した。又、三
條西實條、すなはち恩師の孫に對しても古今傳授を行なつたが、世にこれを「返し傳
授」といふ。かかるうちに再び畏き叡慮あつて、石田勢包圍を解き、幽齋は城を去つ
た。これは、細部は書籍により區々であるが、不朽の史談として傳へられてゐる。翌
慶長六年、彼は智仁親王にも古今傳授をお傳へ申上げた。これより先、天正十六年に
も中院通勝に對して此の傳授をなし、後、慶長八年には烏丸光廣へも秘訣口傳を授け
たのであつた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■後水尾院と小説「花と火の帝」

2021-11-12 12:56:19 | 書籍・読書

 寛永三年の後水尾院の伏見行幸のことを調べようと思うが、ウィキペディアをみても「行幸絵図」などはあるが、肝心の行幸の詳細などには全く触れられていない。
 寛永三年二条城行幸. 〔上・中巻〕の中巻の末尾部分に細川越中守の記載が見える。
熊倉功夫著の文庫本「後水尾院」を持っていたなと思い探すが見つからない。地震後長く幾箱も開かずの段ボール箱があったのだが、さすがにこれは開けてしまって押し入れの中や本棚にお出ましをいただいた。
捨てたか?そうこうしているうちに、後水尾院を主人公とした小説、隆慶一郎の「花と火の帝」(日本経済新聞社・1990年版)上下巻二冊が顔を出したので、少々読んでいるうちにすっかり虜になってしまった。
最初の5~60頁の内に後水尾院の意をうけた八瀬童子の「岩兵衛」が、細川幽齋の田邊城の開城に係わっていることが記されていて、続けて読まざるを得なくなってしまった。
奇想天外な発想による小説で、いかにも小説の世界の快刀乱麻の展開だが、將軍秀忠の娘・和子の入内や柳生をつかっての徳川方の院周辺の女御を排除する悲惨な情景にはしばしばうんざりさせられる。
院の鬱々たる思いに主人公「岩介」が寄り添っている。隆氏の筆力にはただただ敬服するのみである。
「伏見行幸」については下巻の後半部に徳川実記を引用しさらりと書いてあるだけである。

数日、この小説に付き合ってから、本来の伏見行幸の史料収集に取り掛かろうと思っている。

    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■部分御舊記・軍事部八(9)有馬働御帳之内抽書

2021-11-12 06:48:17 | 書籍・読書

      有馬働御帳之内抽書(全)

本丸石垣之名根ニ著申段ニ御座候
一、津田六郎右衛門
   二月廿七日本丸水ノ手口見付之石垣ニ著一番ニ石垣を乗越須戸構へ著敵一人突申候 証人木造兵助にて御座候
   証人口紛無御座候已上

本丸働之段ニ御座候
一、藤掛蔵人
   二月廿七日本丸江乗込敵一人討捕申印ハ西川権四郎ニ見せ申候 証人権四郎口首ハ見届申候以上

三ノ丸之段ニ御座候
一、入江八郎兵衛
   永良弥角   御中小姓
   入江八郎兵衛
   小林助大夫  御中小姓
   佐田長三郎
   二月廿七日三ノ丸ノ一番乗私共四人にて御座候 御仕寄当番にて罷居候処ニ鍋島殿手二ノ丸四半ノしなゑの差物乗込
申躰ニ見へ
   申砌誰共不存三ノ丸乗込候へと申声仕候間則此四人之ものとも一度ニ乗込申候 私共之外ハ三ノ丸一番乗ハ無御座候以上

本丸塀著之段ニ御座候
一、入江八良兵衛
   二月廿七日本丸塀ニ著申候 塀の破ゟニ鑓つかれ引取申候 証人佐田長三郎 証人之口紛む御座候已上

本丸働之段ニ御座候
一、加藤安大夫
   二月廿七日本丸へ乗込敵壱人馬上筒にて討留申候 証人早水忠兵衛にて御座候已上

二ノ丸ニ而頸取之段ニ御座候
一、乃美新八
   二月廿七日本丸大手口十間ほと口の土手をたてニ取居申敵一人つきたおし申候 証人有吉頼母佐内渡辺伝左衛門
   証人之口相違無御座候已上

一、財津市兵衛
   御帳二ハ見へ不申候

御側御弓・御鉄砲頭之御帳ニ御座候
一、高見権右衛門
  一、私儀御弓之衆不残召連三ノ丸ノ内より御先へ御供仕奥田権左衛門組と一所ニ参居申候 二ノ丸へ御押込被成候時御先へ參
    本丸近所へ参越候て御差物を見付不申いかゝ可仕と見合申候内 湯浅角兵衛組共ニ御小々姓衆も参躰見申ニ付て何も御先へ
    被遣候 偏ニ存御詫無御座内御先へ参候段何とも可申上様無御座迷惑ニ奉存候
       一、本丸石垣海手より拾五間ほと水の手口ノ方石垣下まで御弓之衆拾壱人供ニ召連上矢を討せ居申候内ニ御弓之衆六人手負申
    候を相組之もの引のけ残る三人ニ罷成候ゆへ上矢のかせきハ手うすく罷成候間責而自身なりとも何とそ仕乗込可申と存
    石垣際へ著則石垣之上へ上り居申内ニ差物を切おられ其後石にて打落され五六間下にて立上り又石垣へ著 佐分利千蔵・
    水間久馬親と一所に居申候ていきをつき居申内ニ引取候へと御使ニ付小篠角大夫と一所ニ引取御本陣へ参居候而明ル廿八
    日落城迄相詰居申候
  一、上矢を爲討候段ハ貫角右衛門・小篠角大夫見可申候 石垣之上ニ而之儀ハ川村伊右衛門・藤本勘助・坂井七郎右衛門見可申候
    以上

御鉄炮衆并御馬廻と御座候御帳ニ御座候
一、矢野勘右衛門    (     豊後府内の目付    )
  一、十二月廿日ニ私儀松平仁三郎様・牧伝蔵様・林丹波様御供仕罷出候へとも摠乗無御座右三人御引被成候間私共も引申候以上
  一、正月朔日ニ私共義ハ右三人之御上使ニ付有馬玄番様御持口へ掛り申候処ニ玄番様御人数不残被立候処ニ松山権兵衛・横山助進
    私三人入違 捨り申たる竹把を取一ッ完立候ニ付次第/\ニ仕出シ鉄炮を打申候 然処ニ権兵衛・平馬ハ御上使之御座所へ御見
    廻ニ参候 助進・私儀ハ跡ニ罷居候所私共わきを二・三拾人ほとにて掛申躰ニ御座候ニ付 則助進・私両人竹葉把をかけ出シ
    塀ニ著候処ニ鑓にてからち合候所を石にて打倒され又ふミ上りからち合候へとも同勢つゝき不申候事難成ニ付五六間下之
    岸まて何も一度ニ引取罷居候へとも 其後掛り申ものも無御座候ニ付寺尾左助居申処へ参 伝蔵様・丹波様被召寄唯今塀ニ著
            働之段近比成働之由被仰伝蔵様御菓子をまいりかけ候て被下候 其以後も伊豆守様御小屋場ニ参罷在候処ニ伝蔵様・丹波様・
    飛騨様・十藏様御同道ニ而伊豆様御小屋場にて私を被成御覧丹波様・伝蔵様御両人にて何も様之御前ニ私を被召出 元日之
    
    私仕方御物証被成何も様御褒美之御言葉ニ預候 其外私朔日之様子寺尾左助見届可申候間御尋可被成候已上

本丸石垣之根著之段ニ御座候
一、矢野勘右衛門
   二月廿七日本丸石垣下ニ著松山兵左衛門一所ニ居申候 石垣半分ニ上り鑓にて突合申候 証人口相違無御座候以上

牢人衆・他国衆証拠ニ被立候御帳ニ御座候
一、竹原少大夫
   二月廿七日有馬本丸石垣ニ上り塀裏ニ付鑓を二三度合突落され申候 証人谷主膳組ニ入牢人各務四兵衛 右之四兵衛証拠を取替シ
   置申候已上

牢人衆・他国衆証拠ニ被立候御帳ニ御座候
一、金守形右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸塀裏ニ著申候所ニ敵大勢見へ申候条私十文字にて塀越ニ三度うち込申候 谷主膳与ニ入牢人石橋宇兵衛
    弟石橋久兵衛証人にて御座候
  一、其後塀破目より敵鑓にて私具足之左わきを突申候 夫より三間ほと海手之角之方ニ参候ヘハ鉄炮にて私口より耳之わきへうち
    ぬかれ引取申候已上

本丸塀著之段ニ御座候
一、明石源左衛門
   二月廿七日本丸石垣きわニはやく著申候 証人小崎与次兵衛 則塀越ニ鑓にてせり合鑓の柄きられ申候 両度乗掛り候へとも石
   にて打落され申候 其後本丸ニ乗明ル廿は知日ニ松木のわきにて一人鑓つけ討捕申候 猿木何右衛門・小崎与次兵衛本丸にてハ
   門池二郎兵衛・難波善右衛門慥に見届証人相違無御座候已上   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする