津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■部分御舊記・軍事部八(11)有馬城乗之刻働之衆重而改出申帳

2021-11-15 12:44:21 | 史料

      ■有馬城乗之刻働之衆重而改出申帳

一、柘植源右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著石垣を上り申候処を鑓にて突石にて打落され申候 又上り可申と仕候処を引取候へとの御使ニ付而
    引取申候 証人合申候

一、的場勘助
  一、二月廿七日有馬本丸水ノ口升形ニ著申候所升形ニ敵四五人出候間鑓を入かせき申候 証人合申候

一、上田久兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸塀大破の下石垣著鑓にてからち合私鑓切おられ申候 其後引取与頭所ニ罷居申候 証人合申候

市郎左衛門弟
一、財津少介
  一、二月廿七日有馬本丸石垣之上にて鑓を合せ申候所を脇より長刀にて鑓を切おられ申候 向之敵私を突申候所其鑓を私取申候
    其後石垣之上より打落され申候 其後乗込候へとも手負申候所痛申ニ付引取申候 証人合申候

一、越生儀兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸石垣を上り塀越ニ鑓にて突相石手負申候 証人合申候

一、熊谷忠右衛門
  一、二月廿質日有馬本丸塀ニ著申候内より鑓を突出し申候を私も鑓にてからち合申候 私鑓を切おられ申候付持替之鑓にてかせき
    石にてうたれ手負申ニ付而小屋江引取申候 証人合申候

相果申候
一、小林半左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣塀裏ニ著塀越ニ鑓にて突相申候 鑓手負石にて打落され申候 証人合申候

相果申候
一、永良孫兵衛
  一、二月廿七日有馬本丸石垣を乗上り申候所ニ鑓ニ而突候 眼ニ血入見分かたく働不罷成付而引取申候 証人合申候

平左ヱ門事
一、関 安丞
  一、二月廿七日有馬本丸石垣下ニ著塀越ニ突相申候 証人合申候

相果申候
一、岡本源次
  一、二月廿七日有馬本丸石垣塀の手犬走ニ著鑓を合鑓手・長刀手三ケ所負引取申候 証人合申候

御暇被遣候
一、樹下九郎太郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣犬走ニ上り塀の破より鑓を入申候 証人合申候

一、永井安大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著乗上り申候処石ニうたれ息きれ申ニ付蓮池まで引取水をたへ又石垣江著申候
    其後手痛申ニ付引取申候 証人合申候

八右衛門事
一、元田伝次
  一、二月廿七日有馬本丸二丸にて鑓を持申候敵突ふせ申候 首ハ討捨と図書被申ニ付捨申候 其後本丸須戸口升形ニ図書と同前ニ著
    鉄炮手負申其後四ッ時ニ小屋へ罷帰申候 証人合申候

一、上村甚五左衛門
  一、二月廿七日有馬本丸石垣大手ノ出丸にて敵大勢ノ内ゟなた長刀を持申敵ふりかけ懸り申候をからち合仕留申候
    其所間四五間ほと置右之股を鉄炮にて打れ引取申候 証人合申候

相果申候
一、岩佐源吾
  一、二月廿七日有馬本丸須戸口より四五間ほど下ニ而左ノ股を鉄炮にてうたれ申候へとも痛ミ不申候ニ付其ゟ塀ノ手二著申候所
    又右之かいなニ鉄炮手負申候 証人合申候

相果申候
一、釘本十左衛門
  一、二月廿七日有馬二丸ニ而鑓を持居申敵一人突伏申候
  一、同日本丸石垣ニ上り申候所を石にてうたれ石垣根に著居申候へとも痛申ニ付与頭主膳ニ理り小屋へ罷帰候 証人合申候

相果申候
一、伊藤左内
  一、二月廿七日有馬二丸にて鑓を持向候敵と鑓を合せ突伏召仕候もの二首を取せ其頭本丸須戸口二三間下にて西郡要人ニ見せ捨申候
    要人申分首ハ見申候鑓合候所ハ見不申候
  一、本丸水ノ手見付之石垣ニ乗申候所石にて打落され申候 又上り申候時石垣ノ上にて鉄炮ニうたれ申候付引取申候
    証人合申候

相果申候
一、川村伊右衛門
  一、二月廿七日有馬本丸北ノ方塀裏ニ著申候 さまより敵鑓を突出シ申候 此方よりも鑓にてたゝかい申候 証人合申候
    右之所に著居候衆之内ニ而ハ伊右ヱ門はやく乗込申候

相果申候
一、市村一郎兵衛
  一、二月廿七日有馬三ノ丸浜手より鑓を合せ敵一人討捕申候 其後本丸石垣ニ著申候 右之証人合申候

一、高見少五郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣塀越からち合申候 其後本丸乗込敵四五十人居申石をうちかけ石手負申候 其後 証人合申候
    七ッ時まて罷居候得とも石手痛候ニ付一所ニ居候衆理り小屋罷帰申候 右之証人何も合申候

相果申候
一、阿部五大夫
  一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほと乗上り塀ノ破より塀越に鑓を合申候
  一、同廿八日之朝本丸松ノ木下ニて敵一人突たおし申候 右之証人合申候

一、弓削五郎兵衛
       一、二月廿七日有馬二ノ丸にて敵一人鑓仕候
  一、同日本丸海手之塀際ニつき塀越ニ鑓にてからち合申候 証人五人之一人合せ申候
  一、廿八日夜明ニ本末松ノ木の所にて敵一人鑓にて突留申候 証人合申候

相果申候
一、原田十次郎
  一、二月廿七日有馬本丸石垣七八分目程ニ上り内より鑓にて突申を伐私稼申候
  一、廿八日本丸松ノ木御座候所にて刀・脇差・しゆりけん打申ものを三人仕留申候 其後手負引取申候
 証人合申候

一、寺本久太郎
  一、二月廿七日有馬本丸にて敵一人なた長刀にて懸り申候を突伏申候 証人合申候
  一、同日両度之働之内一度ハ他国証人にて御座候ニ付別帳ニ仕書上申候

一、武藤長兵衛
  一、二月廿七日本丸塀の破口石垣ならし石ニ手をかけ両度上り可申と仕候所を両度なから石にてうち落され候 証人合申候
  一、廿八日本丸にて鑓をなけ突ニ仕候敵一人突伏申候 証人合申候
  一、同日働両度之内一度ハ他国証人にて御座候ニ付別帳書付上申候

一、野田小三郎
  一、二月廿質日本丸石垣ならし際まて上り候へとも石にて打落され申候 証人合申候
  一、同日之働両度之内一度ハ牢人証人にて御座候ニ付別帳ニ仕差上申候

杣奉行
一、村川作右衛門
  一、二月廿質日有馬本丸海手之方塀手二著申候 私著申右之方四度なだれ申候へとも四度ともニふみ留居申候処石にてつらを打ハられ
    申ニ付和田伝兵衛せひ引取候へと申ニ付引取申候 証人合申候

銀子堀
一、篠原清兵衛
  一、二月廿七日有馬二ノ丸塀を越敵一人縣申候を鑓ニ而仕留申候 証人合申候
  一、同日之働両度ノ内一度又ハ廿八日働ハ他国証人にて御座候ニ付別帳ニ仕差上申候   
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ 御大工棟梁善蔵聞書控から・・下津さん

2021-11-15 07:05:30 | 人物

「 御大工棟梁善蔵聞書控」というものがある。熊本城の普請に係わったと思われる大工の棟梁の善蔵から善三郎なる人物が聞き取った控えかと思われる。
原本は残されていないようで、近代にいたった書き写されたような資料が残されている。
それゆえ一級資料としての扱いは受けていないが、その内容の確かさから本物であろうと思われる。
実はそのコピーを持っているのだが、これがまた行方知れずである。(どこかにある事は間違いない)
幸い全文読み下しをしていて、その内容はUSBにおとしていて健在である。
これを覗いてみようと思ったのは、「下津棒庵」について調べているさなかふと思い出したからである。
加藤清正に召し出されたというが、お公家さん(久我氏)出身で鹿苑寺(相国寺派・金閣寺)の僧であった人物だ。
熊本城の建築に大いに活躍していることが、この善蔵の記録からもそのことが伺える。
該当する部分をご紹介するが、慶長・元和・寛永期の熊本弁で書かれており、熊本人でも難解でスラスラ読むことは難しく、これも大変興味深いものである。
加藤家は元和二年ころには家中が二つに割れ、元和四年にはこの棒庵が幕府に目安を上げるに至った。牛方・馬方の争いである。
訴訟合戦は泥沼状態になり秀忠の裁断は棒庵の目安に沿う形で、馬方(加藤右馬允派)の勝利となった。

加藤家家臣団は再編される。加藤家没落の予兆と棒庵の複雑な心中を見る思いがする。
そしてまた、棟梁・善蔵にとっても加藤家の没落は深い悲しみの事件であったろう。



                 清正公の仰せ             俺は         家来の衆               安土
ここのお城のでくる前だったか 御先々代様のおほせによっておらあ下津さんけらいのしゆうと 大阪とあづち表にいくことになった
                                    お公家さんの末

それは熊本の城下をおたてになるためだった。下津さんなもとはなんでも京のおくげさんのすへ辺のお方げな、なにこと
         居られたのを
であっちのお寺におんなはったつば御先々代さまが 

         (一行空白)          (金閣寺の僧)
 このお方はなか/\もちこみの子かい方であったか ぼんさんであったのを 御先々代様がぜひともというてさそふて京からこっちにつれてお出でになったときいておった
 御納戸のこと(財政)                                             出来る
御なんどのこつは一さいこの方にまかせきりであったとかで、ここに御城下のでけるやうになったつは この人のすゝめなはったことがもとだったつげな
         どうしてもこうしでも        場所がせまいから                                        出来始め
そも/\府中じゃどうしてんこうしてん ばしょがせまけんこつちにうつしになったが それから古町に町がでけはじめた次第で、この一方にはお城をおこさにやならんちゅうふうになってきたと きひておった
       場所を
そこでおしろのはし□をき□□□□に 御先々代様は御国入のずうっと後 かねてあっちこっちとおひまのとき御巡見になった                小西行長     
はじめは杉島に目をつけなはったが 摂津守の方とあってざんねんながら とりやめになんなはったばい おれはそのころあとからおともいたしまわったが、どどのさいごのばしよが 茶うす山だった

お城かたつとすれば主しやどうしん町もこれにでけんといかんけん さてさうなってくっとお城の立てかたのぎんみときた
かうなってくるとまづお城のつくりかたのみかたたい、あづちと大阪などのお城のくみあわせのみつもりをせにやならん
           私                  あなたの父さん
お殿様からその申付がわっちにあったけん わるがへんとっつあんをつれてたひ立した
                                よその
高麗の御陣のときにやずいぶんとくるし目にあうたてばってん、このよそんお城をいくつもみてまわったことも 一とおり
                    あなたのお父さん
のなんぎくろうしやなかったぞ 図引きや主がへのとっつあんがさしたが、さてもどってきてからいよ/\ 茶うす山の図引となったときや 岩野の御武家で宗久隆さんがこの役になんなはったばい
                                      飯田覚兵衛・森本儀太夫
町家の方は下津さんが図引きの役、お城の図引のでけ上った后で それを御先々代様がいひ田、もり本さん達とちへを出しあはせて長んか間ギんみをしなはったこっをおぼへておる。

おしろが茶うす山手にきまってから 山の地ならしときたばい、こるが大事であって、その次ぎにや材木と石のせんぎ  こるがぎようさんほねがおれた
      瓦焼き                       飯田山
このほかにかはらやきは江戸ヨリ下しになって いひだ山のしたでやかせになった。
     分は     阿蘇・菊池             金峰権現山

ざいもくのぶんな あそきくち、茶うす山、きんほごんげん山の方からも きり出しになり 石は六かう山、きおん山と
       津浦(熊本市北区津浦)
おかみだけ、つのうらあたりからもとりよせなはったばい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする