熊本市立熊本博物館で「熊本の能文化ー能楽伝承」が開催されます。肥後金春流・中村家の多くの能楽資料その他永青文庫・松井家史料など熊本に於ける能楽関係の一級資料が展示されます。
右中央の文書は伊達政宗が中村家に宛てたもので、有名な「鶺鴒の花押」が記された貴重な書状であり、その他多くの大名が中村家でお能の教えを受けていたことを物語っています。
このような資料が一堂に会することは早々にはないと思われます。是非ともこの機会を逃さず展観されますようお勧めいたします。
熊本市立熊本博物館で「熊本の能文化ー能楽伝承」が開催されます。肥後金春流・中村家の多くの能楽資料その他永青文庫・松井家史料など熊本に於ける能楽関係の一級資料が展示されます。
右中央の文書は伊達政宗が中村家に宛てたもので、有名な「鶺鴒の花押」が記された貴重な書状であり、その他多くの大名が中村家でお能の教えを受けていたことを物語っています。
このような資料が一堂に会することは早々にはないと思われます。是非ともこの機会を逃さず展観されますようお勧めいたします。
寛永拾五年二月廿七日 肥前國於有馬原城働之御帳(二)
一、下村五兵衛
一、二月廿七日有馬本丸犬走之上両度上り両度なから鑓にてからち合申候 御下知にて引取申候 証人合申候
一、広瀬木工
一、二月廿七日有馬本丸石垣へ著犬走へ上り申候所を内より鑓にて右之かたさきを突石垣下へ突おとされ申候 御下知にて引取申候
証人合申候
相果申候
一、樹下右衛門
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走ニ上り塀ニ著申候而鑓にて突落され申候 又上り申所をつきおとされ手負申ニ付小屋へ引取申候
証人合申候
乱気ニ罷成候
一、町熊之助
一、二月廿七日本丸犬走へ上り塀裏に著申所を矢さまより私胸をつき申候 其鑓を私取申候 其後石手負申候 夫より本丸へ乗こミ申候
一、廿八日本丸柵の内へはいり鑓をなけつきニ仕又しゆりけんうち申候もの弐人つきとめ申候 其後手負申候而痛申ニ付而引取申候
証人合申候
一、鎌田源大夫
一、弐月廿七日有馬本丸石垣へ少上り鑓を合私鑓を切おられ申候 石にても打レ申候 夫より本丸へ乗込申候
一、廿八日本丸にて鑓をなげつきニ仕又しゅりけんうち申もの両人つきとめ申候 証人合申候
御暇被遣候
一、竹内次郎大夫
一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀之破御座候所にて鑓にてからち合申候 其後石垣之原へ上り鑓を城内へつき入申候所ニ
鑓のしほくひを敵とらへ申候ニ付引合申候 夫より本丸へ乗込申候 手負申候ニ付退申候 証人合申候
一、福田次郎右衛門
一、二月廿七日有馬本丸水之手須戸際へ上り申候刻鉄炮にてほがみの下を打ぬき申候得共 其手ニかまい不申石垣ニ著申候を
又右之肩先ニ鉄炮当り申ニ付引取申候 証人合申候
相果申候
一、小林半三郎
一、二月廿七日有馬本丸塀下ニ著申候 石を打鑓・長刀振廻り申もの見へ申候而鑓をつき入申と仕所私鑓をきり申候 此の以前
石垣へ上り候所を二度打落され申候 証人合申候
一、上田忠蔵
一、二月廿七日有馬本丸犬走ニ上り申所を石にて打落候 其後両度右之乗口へ上り申処を打落され申候 石垣際を前後はなれ不申
本丸へ乗込申候 夜ニ入引取与頭之傍江参手負申候通与頭ニ理り引取申候 証人合申候
相果申候
一、服部九右衛門
一、二月廿七日有馬二丸にて鑓を合申候ヘハ敵引申候を追縣鑓を合申候
一、同日本丸へ乗込敵突テ出味方なたれ申候所踏留居申候 証人合申候
相果申候
一、河喜多八郎
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著犬走ニ乗上り申候処石にて打落され申候 又乗上り申所を石にて打落され申所ニ何も引取候へとの
御使にて引取申候 証人合申候
一、生嶋平左衛門
一、二月廿七日有馬本丸石垣も塀も崩候所へ著申候 其後乗込小屋より敵三人出申候を壱人仕留申候 其後寺本八左衛門を敵つき申候
所を脇より其敵の鑓私取申候 証人合申候
団丞事
一、樹下山三郎
一、二月に十七日有馬本丸犬走ニ上り居申石にて打落され申候 又塀下へ著申候処を又石にて打落され又塀下ニ著其後御下知にて
引取申候 証人合申候
相果申候
一、山本三蔵
一、二月廿質日城乗之刻被仰付候楯板持せ参本丸石垣下ニ著 其後乗込本丸にて両度敵二鑓を合せ高名仕候 証人合申候
武右ヱ門事
一、清成八十郎
一、二月廿質日有馬本丸犬走ニ上り居申処ニ鑓にてつきおとされ申候 又犬走江上り申候処又脇之下を鑓にてつかれ痛申候ニ付
二十八日二ハ不罷出候 証人合申候
相果申候
一、岡本四郎太郎
一、二月廿質日有馬本丸犬走へ上り居敵鑓ニ而つき申処を鑓をうはい候へとも石垣ゟころひ落申候 私親源次手負申ニ付十四五間
ほとかけ退又石垣際へつき申候 証人合申候
一、野瀬角大夫
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著さまより鑓を合申候
一、廿八日本丸にて長刀を持かゝり申候処仕留申候 又同所にて小屋之内敵鑓を持働申候所仕留申候 証人合申候
一、井上新丞
一、二月廿七日有馬本丸石垣ニ著居乗込城内にて長刀持申敵ニ鑓を合鑓付申候
一、同日脇差を持居申ものを鑓付申候
一、廿八日前後与頭ニ付居申候 証人合申候
梶右ヱ門事
一、中川長吉
一、二月廿七日敵本丸へ引取不申内ニ参本丸石垣下之坂中にて敵一人鑓付鉄炮手申候 証人合申候
御切米取相果申候
一、矢野吉丞
一、二月廿七日有馬二丸にて小屋之口にて敵ハ内より鑓にて私は小屋之外より鑓にて突合仕留申候 其後本丸石垣へ上り前後著居申候
一、廿八日本丸にて鑓を合敵一人つき伏申候 証人合申候
御切米取
一、郡 安左衛門
一、二月廿七日有馬本丸犬走へ上り塀之破ゟ鑓を合鑓にてつきおとされ申候 石にても度々打落され申候 其後又上り可申と仕候処ニ
小笠原備前被申候ハ手負申候間引取候へと被差留ニ付而引取申候 証人合申候
歩御使番切米取
一、野々村藤大夫
一、二月廿七日有馬本丸塀之破口にて鑓を合其後本丸にても鑓にてかち合突たをし申候 証人合申候
相果申候
一、渡辺平左衛門
一、私儀鶴崎ニかち奉行被仰付居申候 今度御陳ニ付私事石火矢・大筒打申候間御供仕度由御家老衆・御奉行衆へ御理申上候ヘハ
御吟味之上被遣則石火矢・大筒打申候
一、二月廿七日城乗之刻有馬原之城二丸にて敵十四五人ほと居申処へ参合なた長刀にてかゝり申敵三人鑓にて仕留申候 証人合申候
御切米取
一、財満次左衛門
一、二月廿七日有馬二丸にて敵十二三人かたまり居申処へ參かゝり私ハ杖にてなた長刀持申敵其長刀つへにて打落しとり候て
其長刀にて弐人仕留申候 夫より本丸へ乗込申候 証人合申候
相果申候
一、藤本勘介
一、二月廿七日有馬城乗之刻小笠原備前与之昇奉行仕候 昇之もの参りかね候を備前与小姓ニ昇を持せ勘介手綱を引本丸犬走ニ著申候
其時石にて数度打れ痛申ニ付御人数乗込夫申内ニ引取申候 証人合申候
一、柏木少九郎
一、二月廿七日有馬本丸石垣八分程暫こたへ居申其後乗込本丸にて高名仕候
一、廿八日本丸にて鑓を合高名仕候 証人合申候
一、小林半大夫
一、二月廿七日有馬本丸石垣半分ほとニ暫こたへ居申其後乗込申候
一、廿八日本丸にて刀・脇差・長刀にて働申敵一両人鑓付申候
右之働之衆人数四拾六人
右之衆働之儀面々差出ニ御座候証拠人之書物を受取合相違無御座候間書付上申候以上
寛永十五年七月五日 清田石見守
志水新丞
小笠原備前守
長岡右馬介
有吉頼母佐
長岡佐渡守
坂崎内膳正殿
みぞおちのあたりに痛みを感じて二週間以上がたつ。
市販の薬を飲みだして今日でちょうど10日、一日に30錠飲んでいたから300錠飲んだことになる。
漢方由来の薬でようやく効き目が出てきたのか、四六時中不愉快さが伴う痛みが完全ではないが、少々和らいできた。
本当に有難いという感じがする。1,200錠入りの大きなビンが1/4程減ったが、こりずに飲み続けて平癒に持っていきたい。
「逆流性食道炎」という病気は、胃の入り口の括約筋の動きが鈍くなることによるらしい。
そうなると私のような年齢になると長い付き合いになるようだ。
括約筋の動きを促するためには、横隔膜を動かすのがよく、そのためには腹式呼吸が良いのだそうだが、いつも腹式呼吸をしているわけにはいかない。
この大きなビンの薬は手放せないものになりそうだ。
朝から胸の痛みで目を覚ましたりしていたが、なんとなく朝寝坊しそうな気配である。
「歌仙幽齋」 歌歴(二)
彼が初めて和歌の道に志したことに就いては、太田道灌の場合に酷似した、面白い
挿話が傳へられてゐる。若年の頃、或る戰場にて敵を追ひかけたが、追ひ得ずして引
返さうとすると、從兵の一人が馬の口をおさへ、「今少し追ひかけ給へ。
君はなほ遠くは行かじわが袖の涙のいまだ冷えも果てねば
といふ古歌あり。敵の乗捨てたる馬の鞍を撫でて見るになほ温かく候」と諫めた、藤
孝その諫言に依りて遂に敵を討取り、これより和歌に志す云々。
藤孝が師と仰いだのは、三條西公條の子にして、有名なる實隆には孫に當るところ
の、三光院實枝(實澄ともいふ)であつた。實枝に詠草を送つた武人は多く、毛利元
就なども其一人であつた。三條西實澄卿聞書なるもの一巻が世に傳へられてゐるが、
その巻末に「干戈を枕ながらも文道を捨てぬを武勇と申し候に候へばいかやうの障礙
候とも、一部を遂げられ候べき御覺悟、銀山鐵壁の如く御座候へかし」と記してあ
る。藤孝は、良師を擇んだと云へるだらう。
前述「君はなほ」云々の如き傳説は別として、藤孝の歌歴は實枝に入門した時に始
まると観るべきだが、さて、その入門の年月が判然としない。元龜三年十二月に彼は
實枝より古今傳授を受けた時に三十九歳。當時この傳授を承けることは歌人最高の名
譽と考へられたものだ。而かも二條・冷泉・飛鳥井等の家柄の人にあらずして一介の
武人(元龜の頃藤孝は足利義昭の臣で、城主でもなかつた)なる藤孝がこの名譽を獲
たといふことは、彼すでに久しく實枝の下に學び、力量すぐれてゐたといふ事を證す
るに十分であらう。尋で天正四年、四十三歳の時、再び傳授を受けた。古今傳授とい
ふものは、古今集秘訣、三代集極秘、何々、何々、といふやうに内容が分れてゐたの
で、時を異にし、別々に授かつたといふことであらう。
翌天正五年、上杉謙信へ藤孝から和歌口傳一巻を贈つた由、某書に記してあるが、
これ勿論古今傳授をしたのではなく、定家又は為家の歌學書の類を何か一巻贈呈した
のであらう。この事は、藤孝の歌名漸く遠國まで聞えるに至つたことを證する。謙信
は近衛稙家に歌を學んだことあり、斯界に關心を持つていた。天正七年正月廿四日、
藤孝の師の實枝が六十九歳で薨去した。(實枝の嗣公國が天正十五年に亡くなったの
で、幽齋は遺子實隆を田邊城に引き取つて教育したと常山紀談にしるす。)