慶長15年細川幽齋が京都三条車屋町で死去した。忠興は母・光壽院を江戸辰口邸に住まわせることになるが、これは江戸證人(16年10月頃~)としてである。
辰口邸は慶長8年頃に出来上がっているが、熊本大学名誉教授北野隆氏の日本建築学会論文報告書「細川家文書による近世江戸屋敷の研究」によると、龍口邸は三つの建物(本屋敷・光寿院の家・居間)にわかれていたらしい。
忠興は江戸證人である光壽院に対しては、細やかな心遣いで遇している。
この時期忠興は失明するのではないかと心配するほど目を悪くしていた。一方光壽院も体調は芳しくなかったようで、風呂を使う事を辞めさせるようにと書簡を発したりしている。
■(元和四年)四月朔日、忠利君江之御書之内
追而申候、光寿院殿御屋敷と路地との間之土居ニ、来つゆ之内ニこから竹をうらおもてニひしと植、土居を藪ニ
したて候まゝ、竹之儀才覚候てつゆの内ニうへさせらるへく候、ちいさき竹程能候、なかきハ悪候、いかにもや
せたる小藪か能候、其才覚不成候はかハせらるへく候、竹沢山ニ候は、何方ニ而も路地へ裏之家ノ見ゆる方ニ家
かくしに植度候、二畳敷・三畳敷ほと路地ニハまろくうへさせらるへく候、又土居の下ノ方水つき二ハ柳木をさ
ゝせらるへく候、以上
まるで茶室に於ける茶庭の作庭を思わせるような感じさえする。
そんな忠興の指示が間に合ったのかどうか、光寿院は六月に入り病となる。そして七月廿六日御卒去、御年七十五歳であった。
忠興は「御死目二とても相候事成間敷候間・・」と覚悟をしながらも、七月十三日小倉を発している。「右之目は捨二仕、左之能方之ひとみ(略)上下へほそ長ク罷成、事之外かすみ申候」状態で、廿九日吉田に到着している。
「我等心中御推量候而可被下候、取乱申候而一書ニ申入候」と、後事を忠利に託して忠興は京に十四五日滞在の後、小倉へ帰っている。
そして十月初小倉を発ち、吉田に逗留して目の治療をし、十一月江戸着、廿七日将軍家に御目見している。
江戸證人とはいえ、屋敷には孫の忠利がおり心安らかな晩年であったろう。
元和七年正月七日忠利が家督相続、大名妻子の江戸居住令により忠利室保寿院が江戸に下るのは八年十月である。