ある方との電話の中で「浄勝寺」の話が出た。「浄勝寺」とは「角川日本地名辞典」には次のように記されている。
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熊本市本荘町の苗床にある寺。真宗大谷派。山号は勝軍山。本尊は阿弥陀如来。本堂前の大ソテツにちなんで蘇鉄寺の俗称がある。「肥後国誌」は慶長19年善慶の開基とし,享和2年の「浄勝寺善慶父子武功覚書」には善慶を対馬の領主宗氏の子孫とする。宗氏は盛実の時に託麻本山城主となり,盛実より13代目が,山本郡正院岩野山道祖城主の久隆で,久隆の次男が善慶となる。天文年間出家した善慶は,従弟の隈本城主越前守と同道して上京し,本願寺の門徒となり,善慶の号と浄勝寺の寺号を許された。一方,城越前守は行西の号と徳栄寺の寺号を許され,玉名郡中富手永の広村に徳栄寺を建立した。善慶は先祖の領地であった本山城の跡に浄勝寺を建立。その後慶長5年加藤清正により再興されたとある。寺蔵の開基系図には,久隆は享禄4年冬に肥後国を退去して長門国に向かうとあり,同年の春善慶が道祖城で生まれ,26歳で出家。慶長5年小西行長勢との合戦で加藤清正に仕えて戦功をあげ,慶長19年浄勝寺の開基となり87歳で没したと見える。「肥後国誌」の補説では,2世祐閑の代の寛文5年,法義の争論によって,それまでの西本願寺末を離れ現宗派へ転じた。宝永年間の大火で堂宇を全焼したが,ほどなく再興される。明治10年の西南戦争では薩摩軍戦死者の埋葬地とされ,481名が葬られたが,戦後数年間で遺骨の大半は鹿児島の遺族のもとに引き取られた。昭和20年8月7日暁方の爆撃で被害を受けたが,伽藍の倒壊は免れた。昭和42年,白川の改修工事に伴い本山の泰平橋際の旧寺地から現在地(熊本県熊本市中央区本荘町744番地)へ移転し近代風に改築された。
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幕末の頃の絵図を見ると、古町地区の米屋町1丁目から3丁目へ真南に向かう道筋の白川を挟んでの対岸の川沿いに「浄生寺」の表記が見える。
上記説明によると「本山の泰平橋際の旧寺地」とあるから、昭和35年に建設された「泰平橋」には掛らなかった事になる。
開基の善慶は肥後宗氏の末裔だとされるが、宗氏は本山城の城主であった。後この地を離れて熊本市植木の道祖城主になっている。
そんな先祖を想い、本山城の跡に浄勝寺を創建したというが、この本山城が果たしてどこにあったのかは定かではない。
昭和4年(下図)当時の地図を見ると、本山地区には「城ノ本」とか「西小路」等の名前が残り、本丸ではないかと思われる周囲を道に囲まれた一画も伺われて大変興味深い。
昭和35年に鉄骨の現在の橋が架橋されたが、かっては「明辰橋」という木橋が架かっていた。故に「明辰通り」という名前も記されている。
一本の電話からいろいろ妄想し、古い地図を引っ張り出して見た。
⇧ 浄生(勝)寺