現在慶長期の出来事を年表風にまとめている中、ただ一度幽齋公が豊前を訪ねている事を書き忘れていることに気付いた。
その時薩摩の島津義久が訪れていて、義久が一重切りの名人だという事で隆達節を家臣にうたわせ披露させている。
「然らば所望にまかすべしといって、召しつれた家老・島津下野に、りゅうたつ節という小唄を謡わせ、一重切を吹かれた」と護貞さま著の「細川幽齋」に記されている。
そんなことを考える中、以前web上で見つけた「君が代」に関する一文をブックマークしていることを思い出して開いてみた。
「君が代」ルーツは堺の寺院に?顕本寺の僧創作の隆達節というものだが、何故か発信元は JCP OSAKA 日本共産党大阪委員会となっている。
何故、共産党が取り上げているかだが、ここにある通り君が代の歌詞はこの隆達節から来ているとされる。
これは御説の通りである。「隆達節歌謡全集・本文」というサイトがあるが、ここでは膨大な隆達節の歌詞が紹介されている中に「135」にその歌詞が登場する。
隆達節とは、文禄慶長期から元禄の頃まで大いに流行したようだが、大坂堺の顕本寺の僧・隆達が創始したものだとされる。
歌詞が大変洒脱で大いに流行していたことだろうと思われるが、幽齋が豊前を訪ねた慶長六年という時期と合致する。
これを義久が一重切を吹き、薩摩の家臣が隆達節を披露したというから、その程が伺える。誰かが併せて歌ったかもしれず席は大いににぎわったであろう。
顕本寺は薩摩藩との関係が深く「薩摩寺」とも呼ばれ、隆達節は薩摩武士によって花街などに流布広がったのであろう。
少々話がずれたが、君が代の歌詞を隆達が書いたと言われる屏風がボストン美術館にあることが判り、返却を求めたが断られ、現在は複製が顕本寺に存在するという。
君が代の歌詞は、薩摩藩の大山巌がこの隆達節の「135」を推薦したという事になる。
共産党さんの主張は、色街で酒の席で詠われていたものを、厳粛な国家として使うのは筋違いだというのだろう。
521にも及ぶ歌詞をみていると、これなら流行したはずだと思わずにはいられない。
但し、メロディー(?)は失われたと聞くがこれは誠に残念である。鶴崎の御舟歌も同様で残念の極みである。
参考:「君が代」生誕の地を訪ねて