忠興文書の慶長十年から十五年にかけての文書はいたって少ない。5点が取り上げられている。
尚、綿考輯録から主だった記事を補填させる。
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忠興文書-慶長十年
40、三月三日書状 (この書状については綿考輯録では慶長十六年のこととしている)忠興公‐上、p455)
・三日兵庫に到着、明日大阪に着、五日秀頼に謁見の予定、六日に出発して吉田(京都)へ
41、三月十五日書状
・病のため江戸参勤は御免となり差延べとなった
(三月、与五郎興秋主を証人として江戸江被遣、忠利君の代りと被成候処、途より御出奔ニ付、長岡平左衛門重政を以
証人と被成候)(興秋、京都建仁寺の塔中十如院ニ着、御剃髪)
(四月、家康将軍職御辞退、六日秀忠公将軍宣下、同廿六日為拝賀御参内、忠興上洛)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p433
慶長十一年
(江戸城石垣普請御手伝 忠利在江戸にて諸事被仰付)
(二月中旬、忠興大徳寺希首座を子細有りて御手討被成候)
(七月廿七日、飯河豊前・其子長岡肥後を御誅伐被成候)ー綿考輯録・忠興公‐上巻p435~
忠興文書-慶長十二年
42、三月廿日書状(もしくは十五年)
・近日下国の予定
(慶長十二年十一月朔日、兵部卿妙庵幸隆主、豊前竜王城にて御卒去、37歳)
(十二月十四日、(有吉)武蔵守立行備後国ニて病死、50歳)
(今年、長岡監物興季故有て豊前を出て京ニ奔る、22歳)
慶長十三年
(正月、有吉四郎右衛門康以父武蔵守遺跡無相違、諸格式共ニ先代之通被仰付、長岡并御名乗の字拝領、長岡内膳正興長
と改直ニ高田在城仕候)
(今年駿府の城御修営、諸将と共ニ忠興君も駿府に至りて御勤被成候ー沢村大学も相詰皆朱の鑓を持たす)
(今年忠利君御縁組之儀両御所様被仰出、忠興君御満悦ニ而御礼被仰上候)(四月下旬忠利君御婚礼御整被成候)
忠興書状‐慶長十五年
43、閏二月廿三日書状
・名古屋城普請はになるだろう
・石の調達とその数の確認
44、(慶長十五年ヵ)四月廿三日書状
・七月二所の祝儀
・忠利の帰国を待つ
(八月、幽齋君於京都御大病之告有之候間、昼夜御急御上、廿二日御入洛被成候へとも、幽齋君ハ廿日御逝去・・・
御遺言にまかせ荼毘して、御遺骨を南禅寺天授庵と豊前小倉ニ御わかち被成候・・・九月十三日小倉下着、十八日御葬送の御規式有)